絵には具象、抽象の別はない。具象画であれ抽象画であれ、まずキャンバスの空白に一本の線を引くことから始まる。
最近は学校の国語教育で、”役に立つ文章”と”役に立たない文章”の区別がなされているようだ。
前者は端的に”機械の説明書のような文章”のことだと認識している。
まあ、これはひがみかもしれないが、後者の”役に立たない文書”だけが得意であったことで、今私はここに居る気がするので、なおさら気になっている。
論理的な文章と非論理的な文書、のように分けられている気がするのも不快である。
それを論理的であるかどうかを判断するのは、すべからく個人であるべきだし、個人の自由に任せるべきではないか、と思うからである。
私が嫌いな言葉は、”論理的”や”唯物論”。
べつにもともとの”論理”が嫌いであるわけではない。”論理的”という語で示そうとされがちな思想が嫌なのである。
”論理的”にすべてが実証できる、証拠主義、というものは、基本今の世界の”科学教”の教義であろうと思うが(デカルトから来ている?)、これはとてもつまらないし、そんな世界に行くものか、とこれは幼少期から思って来た気がする。
唯心論、といえば、やれ非論理的だ、夢見る現実逃避だ、と思われる向きも強いだろうが、昔よりはすこしその圧が減ってきた気もする。
唯物論者か、唯心論者か選びなさい、といわれれば、逡巡しつつもおずおずと私は”心”の方を指さすだろう。だが私の敬愛する池田晶子さんも、同じく”唯物”は指さされないという気がする。
自身にとっての真実は、自身の時間による経年変化(劣化のときもあろうが)により自らが決めるべきだ、というのが、私が感じていることかもしれない。
いわばそういうあいまいなところが嫌いで変えたい、と”為政者”と言われる層が思うのは、端的に日本が貧しくなったからであろう、というのが、森博嗣さんから教わった見立てだ。
まあ、私もニュアンスはわかる。会社人としては、卒業してすぐ戦力になる人力が欲しいのだ。私が経営者であれば、全く同じように思うだろう。
そしてそういう”財界”の意向を迎えていかねば、選挙では勝てないのである。
であればまあ、仕方がない。
学校とは究極職業訓練のため、というのが昔から第一義であってきたのだ。
ただ幸福な一瞬に、"高等遊民”が認められる時代があり、”学士さま”などと言われた時があった、と思う。ひがまれ、たいしたことない、という目でみられつつも、どこか羨望される存在。
そこへの言い訳として、ノブレス・オブリージュ、という思想も生まれたのであろう。
いつもありがとう。たいしたことは実はない自分ですが、いざというときには期待に応えられるように自身を律します。
これが私が考える”ノブレス・オブリージュ”の日本語訳だ。
まあ、そういう意味では、本来の職業学校に、学校が戻っただけなのかもしれない。
そこでは別に”ノブレス・オブリージュ”は必要ない。まずは自分自身で自分だけを養えるだけの技を身につけよ。
余裕ない社会ではごくごく当たり前のことだ。
ただそこで学生は、”お前はたいしたことない、一介の労働歯車だ”という社会のメッセージを受け取ることだろう。
これは結構残念で残酷なことのように思う。
それだから、私はこの一見らくちんになるように見える(理系の人に有利なという意味)”論理的でない文章の排斥”を嫌っているのである。
子供、という存在は、諸人がこぞって働かなければ生き延びられない中世にはなかったという。
モラトリアム期間が、社会制度によって定められた、というのも、余裕があったからであろう。
今後人口が減り、AIでも管理しきれない衰退が社会を覆うとき、
子供、もまた無くなるのであろうか、と思う。
(余裕なき生。人が必死で蓄財するのも、本能的に余裕を求めてのことのような気がします。あ、冒頭の野見山さんの文に対するキャッチアップがまだでしたね。私具象画が好きで、抽象画は苦手、という思いがあるんですが、あるいはそれは凝り固まった思い込みではないか、という気づきをこの野見山さんの文からいただけた気がします、と言いたかったのでした)