夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

2月16日 東京雪。荒川洋治「文学は実学である」を読む。

今朝は朝朝食関係をすべて採ってから体重を測ってみた。

 

コーヒー 推定1.5L

スープ 1杯

納豆、卵、各1

バナナ、オレンジ、キウイ

水 茶碗1杯

 

これで66.7kg、体脂肪15.7%と出た。結構ショックな体脂肪率だが、まあ、水分を引けば10前後だろうか。。。

 

昨日の帰宅時で65.2kg、8,7%位だった気がする。

 

だが昨日は雪だったので、トレーニングを止めて家に帰った。するといろいろ食べてしまったので、体重はアップした気がする。

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夜も結構降っていた印象だが、朝見るとシャビシャビ状態であった。今朝は雨に変わったので、溶けている部分もあった。

 

いつもより15分ほど早く家を出た。いつもは全速で歩いているが、けっこうこけるタイプ?なので、以下を考えて通勤した。

 

①なるべく人通りの多いところを歩く。

②一歩に集中して、地面と接する足のバランスを確認してから次の足を出す。

③慌てない。ゆっくり行く。

 

一度つるっと来たが、まあ無事会社に到着した。

いつもは13分位のところ、17分。まあ早い方だろう。

 

さすがに都会は違う。駅の周りはもう雪があまりなかった。細目の道も車がまあまあ通るのか、雪が少ないところもあった。

 

まあ、出勤時間が遅いのも助かる。これが田舎の日陰だと、確実に数日は残り、踏み固められて氷化するのがほとんどだ。都会であることの有利さの一つだろう。

 

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さて、先日図書館で荒川洋治さんのエッセイ選集「文学は実学である」を借りてきた。

 

2020年、みすず書房、3600円の本である。

 

3600円の価値は十分であり、出来れば書棚において、気が向いたら一篇ずつ読んでみる。そんな風にしたい本である。

 

今の私に3600円は厳しいのだが(1年前なら買っていたかな)、ともあれこうして図書館で借りることができることで、この本に出合えたわけだ。ありがたし。

 

この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。

 

P.152 荒川洋治 「文学は実学である」 みすず書房

 

本エッセイは2002年9月1日に産経新聞に掲載された文芸時評の前半の文章であるとのことだ。結構昔という印象だが、文学部をめぐる感覚は、昔からこんな感じだったのだろう。

 

今さらに文学は無駄なディレッタントのお遊びだ、という気配が世間にあるように思う森博嗣さんは、美術館や図書館などは余裕がある世界に存在するもので、今の余裕がない日本ではあるだけで感謝すべきだ、というようなことをおっしゃっていた気がするが(うろ覚えです)、まあ、文学や大学の文学部などは、人生を捨てたお気楽な人間か、国語の先生になるための教育機関か、という雰囲気がいまはもっと強いだろうから、日々状況は悪化しているだろう。

 

なぜここまで文学が敵視されるのか。たぶん、ねたみ、そねみが原因だろう。

 

余裕がある奴が趣味でやる。

 

そういうルサンチマンが文学や文学部を嫌な感じで取り巻いているように思う。

 

かくいう私も文学部志望だった。大学の文学部に行きたい、と両親にいうと、文学部は食べられへんで、センセイになるしかないで、と言われ、大学文学系の教諭の娘である母親から言われると、うーむこれはこの世の真実なのだろう、と思った。

 

うーん、確かにまずは生き延びねばならない。

 

それが自身の最優先事項であることは、自身の理解として深くあった。

 

とにかく、小学校低学年から、自分は集団生活に向いていない、と実感していた。で、働くとはすなわち集団生活、苦手なことを何十年も行わねばならぬのが人生だ、とそのころから感じていた。

 

ので、そうか、文学はアカンのか。

 

そう、自身の中で判断して、しかし”さすがにワセダのイチブンやったらなんかシゴトあるんちゃうか”と、

 

そのままの想いで受験して失敗

 

”そこ落ちたら、それがわが能力の限界、あきらめて”就職によさそうな、興味もなにもなくても仕方がない”学部に行こう”と判断して法学部に行った

 

一つには、本当の自分の興味は文字より視覚で(たぶん視覚優位)、特に師事したい教授やテーマがなかったこと、昔と違い翻訳もあるので、特に戦後ある時期フランス思想の流行りを受け仏文に入るような(小林秀雄とか)モチベーションが無かったこと、語学(特に文法)があまり得意ではなかったこと、などが理由だろうと思っている。

 

だが、そうはいっても未練は残っているようだ。そこに行ってたらどんな人生だったかな、などとも思う。だが”そこは自分で判断したからな”ということは、心の支えになってもいる(どちらかといえば言い訳かな)。

 

内田樹先生の文章を読むと、昔の国立大学は入ってしまえば授業料が安く、親に反対されようがちょっとしたバイトで支払えて、それで自身の判断ですきな学部に行けた、ということである。大学進学率が低いが故の優遇策であろう。やはりどの時代に生まれたのかは、いろいろな影響があるものだ。

 

文学像が、すっかり壊れているというのに(相田みつをの詩しか読まれていないのに)、文学は依然読まれているとの甘い観測のもと、作家も、批評家も、学者も高所からの言説でけむにまくだけで、文学の魅力をおしえない。語ろうとしない。

文学は、経済学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。

特に社会問題がもっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実学」の面を強調しなければならない。

 

 

P.152 荒川洋治 「文学は実学である」 みすず書房

 

相田みつをが悪いわけではない。だが相田を読めば文学だ、という風潮に警笛を鳴らしているのである。そこにはすこしく「安易」という風情が見え隠れしているからだろう。

 

ここで言う文学、例えば「哲学」や一部の「詩」、あるいはユングがいうところの「心理学」、あるいは「神秘学」「人智学」などというものと類似、あるいは含むもの、と言ってもいいかもしれない。

 

人生を見据える契機となるもの。池田晶子さんなら迷わず「考える」という意味での「哲学」を推奨なさったであろうと思う。

 

(文学をねたむ心は、わかる気がします。だが攻撃しやすいからといって、そのものの真価を真に吟味したうえでのものではない点がひっかかっています)