夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

数学とイデア。

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人は性格がアバウトか几帳面かの2つのうちのどちらかに偏るものだと思っている。

勿論人それぞれ、分布のなかにいる。めちゃアバウトか、まあ、真ん中くらいか。私の場合はだいぶん相当アバウト寄りのようだ。

ジェンダー、役割という問題で、例えば男性が稼ぎ、女性が家事、というものはゆらいではいるだろうが、たとえば一方の仕事が大変荷重で、比較的軽い方が多めに家事をやる、ということはあるだろう。

私がもし女性で、多めに家事をやるようなシュチュエーションで、相手がわが家事の完成度に文句をいう、ということを想定すると、まったく瞬時も耐えられないだろう、と思う。

洗濯ものはすくにたため、とか。そんなことを言う人はまずは嫌いである。

だが、几帳面な方に振れている方は、たたまない洗濯物は耐えられない、ということになるだろう。

だが思うに2人いれば全く同じ傾向ということはない。どちらもいろいろな我慢をするものだろう。

私は昔から、大事なことだけに注力して、あとは適当、というようなことを日々考えながらやってきた。

本を買えば、欲しい本にアプローチして、限られた予算の中で購入したら、

そこで終了である。


とりあえずおいておく。文字通り部屋に積む。それ以上はできない。

勿論広い書庫があったのなら、空いている場所に並べるくらいはするだろう。だがそこで終わり。

欲しい本とは、たぶんその中に含まれている他人の考え、それが文章なのか、例えば絵や写真なのかはいろいろだが、その考え、いわば「果実」のようなものを見つけ、感じ、摂取して、(そのうち(笑))味わう、ということを予定できるような存在だ。

日々、食物と同じく、栄養のように摂取する。そういうことを続けていた。

それがいつか「我が創造」として結実するかもしれない、してほしいなあ、という目標を持って。

そんな日々である。


なので、「すべては創造の為の資料」なのである。それをいつまでも求め続けることこそが、我が人生である、と言えるだろう。

つまりは「創造することに振れている」。


仕事とは、最終的にすこしでも良いものを創造するための糧を得る手段のことである。なので、ポンコツ性能の我が肉体であるが、できるだけ苦手でも苦手なこともやったうえで、仕事をやらねばならない。嫌だけど。

そう思ってやってきた。


大学に入学するときは、集団生活が苦手(とくにスポーツ好きな集団)であるが、世間はほとんどがそういうものだ、と認識していたので、「嫌なことに耐える力を鍛える期間」として大学生活を設定した。

仕事はできれば創造につながるような、絵や、小説や、本造りにかかわることをやりたいのだが、地方ではなかなか困難であろう。そう推定し、だめだったら、一般企業でいやいや働くことになるな、とそこで想定していた。

なので、わがポンコツ肉体で限界であろう、できるだけ就職に有利であろう大学と学部を選ぶことにした。

自身の判断だったので、残念な要素はあるが、これは仕方がない、と思っていたのだ。


ここではいつも書いているが、小学校卒業時の理想の職業は、ディレッタント年金生活者。いや、小学校時代も、「それ職業やないやん。」とわかってはいた。

年金も遺産もないのに、それを望んでいるのは、一般的には理解されないことを想定し、卒業論文には「大きな家に住んでコリーを飼う」などと書いた。まるで夢見るヤバイ奴だな、と承知してはいたが、ぎりぎりそれが書ける限界であった。その時の気持ちを今も覚えている。嘘はいやだ、だが「働きたくない」というのもたいがいだ。

早稲田の一文、ここに落ちたら仕方がないので就職に有利そうな大学や学部に行く。そこでやりたくもない集団生活の練習をして、いやいや就職する。これが高校時代に出した結論であった。


ワセダは落ちた。これも自分なりに限界まで頑張ったつもりで、落ちたら仕方がない、と思っていた。浪人してもこれ以上学力が上がるとは思えなかったのだ。

小学校時代からとにかく集団スポーツが苦手。どう苦手か。失敗したらチームメイトに文句を言われる。ずっとそう思っているのに大失敗する。野球やればボールを受けられない。バットを振るスピードは誰にも負けないつもりだが、球に当たることはまずない。守備で来たボールを受けることは無かった。受けられなかったらどうしよう、と思っていると受けられたことは一度もない。

では練習すれば。その気もない。おきないのだ。できるだけそういう機会を避けようという日々である。だが、自身の認識では、会社とは野球のチームのようなもの。嫌なことばかりをしなければならないのだ。

大学ではなので運動部に入った。フェンシング部。同好会ではない。運動という意味では私はレスリングがしたかった。だが所属した学校にはなかった。剣を使っても、格闘ならばこれはやる気がする。相当するのだ。

個人技であるのがいい。団体もあるが個人が中心。

まあ俊敏さを求められるので、大成することはなかったが、集団生活、飲み会、の練習の為であったので、大変役に立ったと思っている。

飲み。これである。会社員として入ると、その技のみをつかって頑張った。とにかく集団生活では浮きまくる性格である。とにかく飲んで、仲間の中での位置をなんとか確保するしかない。

そう思っていた。

 


会社員生活も長くなった。だが相変わらず、「飲み」、つまりは「本来浮いてしまう集団でなんとかやる」ということを、続けている。

それはつまり「人にできるだけ嫌われないようにやる」ことである。一面「媚びる」に通じる。

だが我が本質は集団向きではない。「媚びる」の上等、とそこは振り切っている。

あ、タイトルに関係したことを書いてないなあ。

 


つまりは、私にとって、算数や数学はいやいややるもの、几帳面さを象徴するものであった。

だが、その「規則性」の純粋さをつきつめると、イデア、理想、に近づく、という思想、

これは池田晶子さんなどもおっしゃっていたことだが、

そういう面で、ことさら嫌悪するものではないのかも、ということを言いたかったのだ。

 


まあ、自分で方程式を解く気は、いまだ毛頭ありませんが、例えば純粋に数学を極めたい、という意識のある皆さん(理学部とか)は、あるいは文学部で、あるいは哲学部で、真理を、心理を、極めたい、究極を垣間見たい、という思いを秘めた人々と、几帳面サイドにはいるけれども同質の夢を持つ人々ではあるまいか、と思っているのである。

そういう算数なら、ちょっと触ってみたい気もする。

(まあ、無理でしょうけどねーーーーーー(笑))f:id:mamezouya:20230705063834j:image
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