司馬史観、なる言葉がある。
河合隼雄氏は、自分自身の生き方が一個の確固たる創作である、とおっしゃる。
歴史、というものは、自身が関わるものという感覚はあまりないのだが、大きく人生という視点で見ると自身の中の歴史というか、歴史の中の自分というか、当たり前であるが大きく関係するのである。
だがそのことに自覚的であることは難しい。少なくとも個人的には。
例えば私がユダヤ人でヒトラーのころに生きていればどうだろう。
あるいは逆にヒトラーのころのドイツ人であったなら。
最近NHKの「映像の世紀」を見ているが、やはり具体的な映像で見ると、文章では遠くの別世界の出来事のように思えた事象が、まさに今に地続きである、ということがひしひしと伝わってくる。
色褪せた、再生スピードがおかしい、奇妙なナレーションが入った映像であっても、その映像が撮影された時をいきいきと想像すれば、それがいまと同じ、あるいはもっとすがすがしい天気の元で撮影されたことも感じるし、はたまた映画ではない真の殺人・殺戮があったこともまざまざと感じるのだ。
そんな歴史の中にいる。歴史の中に私はいる、もしくはその逆。
私のなかに、歴史はある。
すべてが一である、などというのだが、全ては関係しており、縁がある。
それが遠い、というのと近い、というのは、それほど違った意味ではない。
宇宙的視野で見るのなら、100年というのはそれこそ一瞬のゆらぎのようなものだ。1億年でも、あるいは1兆年でもそうかもしれない。
司馬遼太郎の本を読むと、歴史はそうであった、という気分が横溢するが、基本的には史実をベースに司馬氏が「小説として」作り上げたものなのだろう。だが、歴史はそうであった、あるいはそうであってほしい、という気持ちはなぜ起こるのだろうか。
多分、氏が慈愛と慈悲の創造者として、小説を作っておられたからだろう。
村上春樹と川上未映子の対談(というか川上さんによるインタビュー)で、小説を書くということは徹頭徹尾一人でできることで、控えめに言って最高です、ということをお互いおっしゃっていた。
書くことには責任は伴うのだが、少なくとも作者は自らの小説世界の中では文字通り創造主である。
なにをどうしてもいいのだ。フィクションの世界は、なにをどうするしかないのだ。
歴史は一方からいえば現実の進行であるけれども、それと同時に、その進行たるやわれわれみずからが参与し協力してわれわれがつくるところの創造的な発展でなければならない。・・・・歴史の生成はわれわれの行為なのである。歴史の生成は同時にわれわれみずからの実践なのである。
田辺元 哲学の根本問題 数理の歴史主義展開 岩波文庫 P.119 2010年
(すべてはあざなえる縄、なのでしょうか。。。)