夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

12月21日 一者と三位一体。

今日の体重65.4kg、体脂肪11.4%。

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昨日は推定10時間かけて、アマゾンプライムで2010年代中盤(2013-15くらい?)のアマゾンオリジナル番組、”ブロードチャーチ”をシーズン2終わりまで見た。一応12時であったが、日が変わらないうちに見終わってよかった。

 

最近はアマゾンプライムのオリジナルをよく見る。一つのパターンは、主人公とバディと呼ぶべき存在(複数のこともある)が、始めの関係はイマイチでもだんだん良くなって、最後は信頼感を構築して別れる、というものである。ベタといえばベタだが、見ていてカタルシスがあるという面もあるだろう。

 

アマゾンなのでアメリカが舞台かと思ったが、途中でなんとなく”これはイギリスが舞台なのかも”という気がしてきた。

 

結局どちらかはわからないのだが、”ロンドン”という語が出たので、多分イギリスなのだろう。勿論英語を聞いても米語か英語かさっぱり区別がつかない。アメリカ人が見ればすぐに”これは英国だ”と思うのかもしれないが、これは欧米人が日本と韓国と中国の文化をぐちゃぐちゃに理解しているのと似たものがあるだろう。

 

別の番組であったが、漢方薬の店で微妙にひらがなが書かれていたり、昔いったサウジアラビアの日本料理屋で、メニューの漢字印刷がひっくり返っていたいることを指摘したが、店員は”知ってるよ”とめんどくさそうに答えたり、といったことを思い出す。

 

多分米国ものを見慣れていると、警察官が結構頻繁に銃を撃つシーンがあるのだが、この番組ではなかった。凶器もすくなく、人が亡くなるのは窒息したり、床に頭を打ち付けたりの結果で、それで結構すぐに死んでしまうのだ。

 

こうやって思い出してみるとやはり舞台は多分英国だろうという気がしてくる。法曹シーン(裁判所)では、裁判官ほかが巻き毛の金髪カツラをみんなかぶっていたが、これはアメリカでもそうなのだろうか。

 

シーズン2まで見て、最後は謎回収で展開がばたばたした感じもあるが、だいたい回収されていた。また人間関係もまあまあいい感じで終わっており、見終わった感覚は結構いいものであった。

 

やはりシリーズものは危険である。シーズン3とかになると、例えば1シーズン50分が7話くらいとして、350分x3=1050分となる。17.5時間だ。一日8時間見たとして2日強、つい日付が変わるまで見てしまう、という時間溶かし効果絶大な危険アイテムなのである。

 

 

 

 

 

「そして、以上述べたことは、恐らく、存在、真、善と、同じ仕方で互換可能である一者という表現が、何かに所属させられるという仕方で、ある一つの人格に関係付けられるのではなく、ボエティウスが、『三位一体論』の中で、『実体は、統一を保持し、関係は、三者性を展開する』と言っているように、統一を保持する、ということに対する根拠である。」

 

ヴェルテ「マイスター・エックハルト」P.71  (LW.Ⅲ.305.4ff)

 

三位一体、という概念を、ここ日本で過ごしているとほとんど聞いた経験が個人的にはない。キリスト教的には”父と子と精霊”ということになるだろうが、そもそもそれを聞いてもそれがいったいなにを言っているのか、という疑問自体、我が日常生活で全く浮かぶことがなかったのである。

 

これがキリスト教文化圏内であれば違うのだろう。たぶん、基本中の基本、ということになるのだろう。

 

だが、その”3つのものが総合的にすべてである”という感触は、そう聞けば”そうかもな”となってくる。

 

そして、それが”存在、真、善”と置き換えられる(つまり同じ)と言われれば、そうかそういうことを言いたいのか、となってくる。

 

で、3つにわかれてはいるが結局は”一”である、あるいはそれを”一者”と呼ぶ、と整理されると、ふむふむなるほどなあ、という個人的感触がすこしく湧いてはくる。

 

 

まあ、そんなことをいわゆる学校教育でなされることは多分ほぼなく、キリスト教文化、あるいは宗教を学ぶ人のみが接することができる概念かもしれない。

 

あるいは、別の宗教からのアプローチ、そしてもちろん哲学からのアプローチもまた、有りうるだろう。

 

エックハルトは感触としては、個人的には”哲学”である、と感じる。学問というよりは、池田晶子さんがおしゃる”考えること”に近いだろう。

 

そこでは押し付けはない。とことん自分の内部へ自身の感じることに従って、ダイブしてゆく感じがあるのみだ。

 

存在、真、善、とくればこれはもちろん”もうわかった、十分だ”ということに永遠にたどり着かないテーマであろう。それは多分、考え続けること、という態度でしか接することができないような、

 

項目だろう、と思っている。

 

池田晶子さんが、自ら考える姿勢を体現されていたことは、本当に勉強になりました)