夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

嫌味は弱者のマウンティング。自虐は使い方は難しい面はあるが嫌いではない。

 

 

今朝勝間和代さんのYOUTUBEを見ていたら、上記の言葉があり、誠に納得感があったので、自分としても書いてみる。

嫌味、というものが子供のころから大嫌いで、聞いた途端に嫌味をいう人は今後警戒しなければならない、という気持になってきた。

まあ、ふつう誰でもそうなのだろう、と思うが。

嫌味を言われて、言われた内容を修正しよう、ということは、1ミクロンも思わないのみならず、嫌味をいう相手のことが大嫌いになり、見かけると避けることになってきた。

嫌味をいわれてとっても嫌な気分、嫌味をいうことでこちらが変わると思っている相手の認識をバカにする気分、人をバカにすることで自分が嫌な気分になる(できれば自分の中で”あの人が嫌い”というようなネガティブストレスをためたくない)、今後もいつ嫌味砲をぶちかましてくるかわからないので、その人が近くに来たら逃げなければならない、ということを考え続けなければならないと考えるストレス、

もろもろ含めて本当に嫌なものだ。

相手は直接文句をいう相手だと私を認識せず、嫌味、つまりは「弱者のマウンティング(BY勝間さん)」によってしか意見をいう事ができない、と認識しているようだが、

そこもめんどくさい。

いやもう、気に入らないのなら直接いってくれや。

そんな気分にもなるが、まあ、言われること自体も嫌ではある。

そんなこころの機微がわからない人が、嫌味をいう人だと思っていて、嫌味をいうが好きな人、というのは周りに誰もいない。

まあ、誰でもそうだろうが。

一方で似たハビトゥスとして「自虐」がある。

これは気を付けないと、「自虐の衣を着た自慢」の場合があり、こちらはまた嫌味と同様腐臭を放つものだ。

こころから、自分を客観視して、「マジでこいつやばいんちゃうか」と言われる世界にあえて自らを落として晒す。

この作法が個人的には大好きだ。

飲み会でも、こんな話をしたいものだ。

自虐自慢。

まあ、これは「自虐の振りをした自慢」のことではなく、本当に「残念な私」を開陳しまくるという空間をイメージしている。

こういう空間に私はいたい、と思っている。

(たぶん本当の自虐ができる人は、自分に自信があるのでしょうが。。なので、自虐内容が本当に自虐で自慢が入ってはいないのだが、それでも微妙、という状態はありうるでしょう。だがそれはいわゆるイメージとしての「諧謔」「英国紳士(イメージです)のユーモア」みたいなものかとも思っている。いわゆる「心の余裕」というやつですね)