夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

「陰徳」は本当に陰徳でありうるのか。将来自分に特になる、という意識と無縁で人と付き合うことは果たしてできるのだろうか。

f:id:mamezouya:20230116051659j:imagef:id:mamezouya:20230116051710j:image人と人との関係は難しい。家族というのは、自身が子供である期間は多くの場合は家族の一員である、ということを選ぶことなく与えられるわけで、その点では特殊ではあるが、家族以外だとそうした関係性が生まれる場所といえば「会社」だろうか。

会社というものも、椅子にすわれば配置があり、どの人の配下、どの部門から指示を受けるか、という(家族で行けば)子供のような「下の」立場でスタートし、年を経るにつれ、場合によっては少しづつ「立場が上がる」。

だがまあ、大きなくくりとしては、会社の中での関係だ。

社会もそうだろう。どの国に生まれた。性別はどうか。人間としての能力は社会の中でどのような位置にあり、なにを行ってゆくか。

そこから自由になることはなかなか難しい。


友人、というのも、その中で出てきた関係性の中でだいたいは出来上がってくるものだ。


ある程度はそういった環境に左右されるものの、例えば趣味の世界での友人知人であればある程度自身で選択できるだろう。

実際の人間ではなくとも、例えば取り入れるメディア、TVやネット、ゲームや本、というものも、自身で選べることは選べる。

ただ、酒やゲームのように、とにかく中毒性を隠し持たせて(酒は別に隠していないが)継続的な利用者(課金者)として取り込もう、というトラップはありうる。

まあ、そういったことに意識的となり、できるだけ自身の人生の時間と日々を自身のコントロール下に置きたいものだと、思っている。

表記の件、「陰徳」とは本来は将来の自分への「見返り」を求める心があっては本当の「陰」ではないはずだが、奥ゆかしさの演出、といったようないやらしい知恵のようなものから推奨されることもあるかと思う。

そうした「汚れた陰徳」が実はほとんどではないか、とにらんでいる。

こころから、本質的な「陰徳」に接し、感謝したいものである。

(なかなかトラップは多いですが)

 

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