失敗の本質、という本で、日本軍の失敗の3つの理由として、
①目的の不明確
②兵力の逐次投入
③根拠なき楽観主義
が挙げられているという。自分の中で顧みて③の根拠なき楽観主義、という傾向が、どうも自分自身にもすごくありそうだなあ、と思ったので、なぜそうなのかを考えてみた。
やはり理由は、「他責感」だろう。自分は100%の自己の判断によりここにいるのではない。どこかなりゆきで、つまりは自分自身の意思でここにいるわけではない、という思いではあるまいか。
これは昔の将校の皆さんのことを言っているのではない。いま、仕事をするときの自分の心構えのことを言っている。
そして、そう思っている自分を、残念にも思っている。
残念だが、やってしまいそうなのだ。
ではどうすればそこから逃れられるのか。
根拠がないことは、残念ながらあるだろう。自ら根拠がないのであれば、どこからか、誰からか根拠が入手できるとよい。
だが、それができないときがあるだろう。
そのときに、自らの精神を破綻させないために、”楽観主義”を採用してしまうのかもしれない。
本当に破綻しそうであれば、楽観主義は仕方がないが、破綻しそうでなくとも、そちらのほうが楽そうだからと楽観主義になることもあろう。
ここを避けるべきなのだろう。耐えられそうであれば、楽観主義に”逃げる”ことはなく、「悲観主義」=心配性になる。悲観すれば、根拠を求める力が、あるいは強まるかもしれない。すぐは無理でも、少しずつ、強まるかもしれない。
自身で根拠を求める力がないかもしれない。だがその時は恥ずかしさを克服して、他者から根拠をもらうように頼むしか、ないのだろう。
そういう他者が周りにいないのであれば、探す。
プライドや見栄を、捨ててゆく、ということだろう。
言うは易し、であるが、一個人ではなく、組織全体が奈落に落ちるのであれば、やはり個人の見栄にこだわらない、自身の強さを、もとめてゆくべきだろう。
やはり「人格の陶冶」を求めてゆくしか、ないだろう。
義務感では続かない。そこにはそういう人格への「憧れ」があるべきだ。
そうした「憧れ」をどう、自らに喚起してゆくのか。
そこはたぶん、「師を求める心」を持つことかもしれない。
師は私の師であることを自らは告げない。私がある人が「師」であることを望むとき、はじめて師は現れる。師は私にとって彼・彼女が師であることを、知らないかもしれない。
師に憧れ、そうありたいと望む自分を作り出す。
そのために師が必要なのだ。
なので、「師」の姿は、各人にとって様々であろう。例は貰えるかもしれないが、その例がすべて師になるわけではない。だが例を見ていれば、師に出会える確率が上がるのだ、
例はどこで見るのか。やはり書籍であろう。
勿論、生身の人間で出会えるかもしれない。だが、書籍であれば、母数が違う。翻訳されたものを入れれば、例は現在生きている人のそれこそ何百倍もあるだろう。
四聖、と呼ばれる人々(神、かもしれないが)がまずは浮かぶ。そこからひも解いて、さまざまな自身の好みや傾向で探せばよいだろう。
今は私にとってはやはり池田晶子師。師という語を書くとなんだか宗教じみるのだが、そういう意味ではなく、あくまで「わが師」という意味での呼びかけだが。
大変だ。やはり自分の中に色濃く含まれる「めんどくさがり」「責任感の欠如あるいは不足」は、一筋縄ではいかない。
すこしぼんやりしていると、すぐに「理由なき楽観主義」に陥って、しまうようだ。
(いつもなぜこんなになんでもぎりぎりにしかできないのか、と思います)