夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

写経。

南京、に行った。

その都市に関しては、まあこの日の本に在していれば、初めてのときには事前にいろいろ気になった部分はあったのだが、”都市の記憶”が僕個人に対峙するわけではなく、はたまた僕個人がある状況に対して意見を表明する機会もなく、個人と個人のお仕事をする機会であったならば、特段なにごとも起こらなかったわけで。

まあ、そのことをここでいいたい訳ではなく。

そも中国では我々日本人が日々いろいろ使用しているいわゆる”SNS"というやつ、これが米国企業オリジンだったりするとほぼ日常使用はできない。つまり移動中たよりになるのは、やはり”文庫本”であった、と改めて実感した。

たぶん池田さんの肉体が、いまのこの世(この世とはなにか、という問題はさておき)に在られますれば、こういういわゆる”SNS"というものに強烈な”形而上的一撃(メタフィジカル・パンチ)を放たれていたかもしれないのですが、それもさておき、

結局時間つぶせないのなら”本読むくらいしかない”。

いちいち立ち止まっているのもなんだかだが、この”時間をつぶす”という行為、これは”この生が奇跡的な事実である”ことを実感しているのであればまずはもったいなくて出てこない言葉、ということになる。。はずなのだが凡百たる我が身のこと、当り前田のクラッカー(あ、これ前回も使ったな)のようにフツーに出てくるわけであり、

まあでも、日本国の新幹線プラットフォームに鎮座まします”キオスク”で列車ミステリーの文庫本を”ちょっとこれ安易かな”という気持ちを心の片隅に持ちながら求めることも勿論できない。

そしてそして、””すごく感動して、絶対また読むぞ、と決心しつつ読み返すことは結局皆無で、そしてその存在を目にすると”あ、宿題やれてない”と気持ちで都度微妙にブルーになる””場所を取ってしまうものの代表”として”時間つぶしに買った文庫本”などがあるわけであり、

これが子供時分に読んだものであれば知らぬ間に実家では処分されており、その処分時の想定される葛藤皆無でありがたく自然に遂行して貰えたりするのであるが、一人で住むみであればそれもなく、、


、といったことをつらつら考えていると、”こりゃあめったなことで文庫本は買えないぞ”という気持ちに実はなっている。


おもちゃしかりマンガしかり。

一度”限界まで物量がしらずしらずに増えてしまい、非常なる心理的葛藤を経て、泣く泣く手放す、売っても雀の涙、という経験を経てみると、これはこれでありがたいのかもしれない。買わねばならぬ、という欲は減っては来ている。


まあ、これは”自分の人生は先に何年あるのだ”という考え、これは基本他人の経験の総和と平均の結果である”平均寿命”というやつの”意図せず確信犯的にだまくらかし”に知らず知らず乗ってしまった結果であるが、とにかくそれを持ってしまった結果、”先行き何年ある自分の人生に対し、資料、なんらかの自ら納得のゆくものを作り出すためのそのための下肥、として例えば本などを貯めてゆく”、という行為が、まあ、歳も取ったし、まあもういいんじゃないかな的な心の声が芽生えた結果、

などなどによるものなのだろう、と思っている。


あ、思い出したが、あの”天気予報”というやつ、名前が”予報”とついているので、まあ”予言”という風に耳の勝手な言語変換によりいままでやってきたのだが、最近どこかで聞いた話では、あれは”予言”ではなく、”過去のデータから導かれた結果をただパーセンテージで示したものに過ぎない”そうである。

これは一見というか一聞というか、まあ同じ物のように聞こえるが、

だいぶんと違う。言っている人(機構?)の責任感、すなわち”なんかあったら謝ります度”が断然違う。


つまり”基本これは過去のデータから導かれたものですからそも当たった、当たらなかった、という議論から我々はエスケープさせてもらってますよ”という気持ちがあるのかないのかの違いだ。


いや、そういう”責任感”みたいなものを持って、いわゆる”覚悟を持って仕事をせよ”といいたいわけではない。

そんなの無理だ。

これはたぶん最近の天変地異、いわゆる地震や雷、台風の類、こうしたものの”予知”にともなう”予知者”への世間、といわれる皆さんのコンコロモチがそもそも苛烈であることから来ている、というのが我が見立てである。

”当たらなかったではないか、何考えとるんじゃ”。


・・・これである。


”おまえらプロならきちんと予想せいよ”


過去為政者は、旱魃に面し自らを人身御供として差し出さねば、の存在でもあったろうと思う。

神の声を聴き伝える、という行為が反したように見えたときの発声者への”民による処罰”たる”死の賜り”。場合によっては例えば橋の杭の下に埋められる、塗り系のものであれば”塗りこめられる”。


これはきつすぎるでしょう、という思いが、同じく”予言系”のお仕事の現代版たる”天気予報屋さんの皆さん”に皆無である、とは個人的には思えない。


”そこ、責任もてませんぜ”


と、当然そうなる。


ただし、一方で”それをいっちゃあおしまいよ”ということがこの世にあまたある。この思いの発露もまた”禁じられている”=”お仕事の安寧の為に”。

”お仕事”の冒頭語(接頭語、かな)”お”には、”この人たちはここでこの仕事してオカネもろてよし”という怖ーい”世間の承諾”が漏れなくこもっている。

まあ、まわりくどくて、そも言いたいことから外れてしまっているが、とにかく”天気予報の機構”は、”これは過去の実績の集約から導かれた「予報」であり、未来をあてる「予言」ではありませんよ”と、ちょっといらつきながら設定している。

その心は、


”外れても怒るなよ”


である。


どこの国だかは忘れたが、為政者が天変地異の発生で大きな被害が出たときに、”世間一般の怒り”、つまり、”国はキチンを予測ぐらいせんかい”という、怨念的にドロドロした思い、に対するいいわけ的対処に、例えば地震学者を処罰する、ということがあったような気がする。

本来そこは正面切って正論で、いや本来予言なんてものはニンゲンには無理だ、予報なら可能性としてできますがね、

とすっきり説明というか、認識の確認というか、があったほうがいい気もするが。。。。



。。。。ええと、ちょっと暑くて集中力が低下して、


そしてタイトルの”写経”に行き着くことができないようだ。

言いたかったのは、


1.池田さんの本はそもそも”人生の必携本”であるからしてその著作群のなかで、文庫本になっているものはこうした移動時の携帯には最適で、

2.今回は”メタフィジカル・パンチ”を携行したが、相変わらず”何回でも読めて”、どこのページを開いても、真実が”金太郎飴の如く”みずみずしく顔を出していることに改めて驚嘆し、


3.思わず機中で、一項まるまる書き写していた



・・・それが写経のようであった、写経とはそも言葉を書く行為によって体に、魂に、しみ込ませる装置であったのではないか、


といったような事を言いたかったのです。


残念、行き着きませんでした。



因みに書き写したのはやっぱり”小林秀雄”の項、であった。



小林秀雄が好きな池田晶子さんが好きだ



これって、なんなんですかね。三角関係?



でも珍しい、”嬉しい三角関係”ですね。