夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

木田元。

今週は1週間の中国行脚の予定。

白酒でメタメタにされるのも必至である。

酒、というものとの出会いは、大学生になって一念発起して(マイナーな)運動部に入り、いわゆる一気全盛時代であったので、いわば”無理をして見せつぶれて見せ”の道具としての出会いであった。

決して幸福なものではなかったと思う。

だが、その後の会社生活のなか、いわば”あきらめてそのようなものとしてつきあって”ゆくうちに、精神の酩酊、そう、池田さんのいう”精神のブースター”の役割をする、という部分もうすうすわかってはきた。

だが、その後とりたてて”楽しく飲む”こともなく、まあ適度につきあいつつ、そして会社が関係すると時に記憶喪失も伴う危険な存在として、そう、この20年程度は付き合ってきたようだ。

そしてこのたびの転勤。業務も代わりまた”仕事として飲む”ことが必要になってきたのだ。

アジア、うち中国や韓国は、飲んで仲良くなる文化だ。まあ、ことばが話せないこともある(片言の英語ではやはり無理)。

さて、どうなるのか。


池田さんが酒をよく嗜まれたのは有名なところだろう。

今回中国へ持参予定なのは、引き続き文庫版の”メタフィジカル・パンチ”。

あとがきは先般鬼籍に入られた木田元さんだ。


前にも読んでいて、それで木田先生の本を何冊か読んではいたのだが、あとがきを久しぶりに再読して、なぜに木田先生の本を読んだのかを思い出した。

池田さんが信頼されていたからである。

あとがきで、木田さんは池田さんとの縁を述べられる。初めて会われたのは池田さんが慶応の哲学科2年在籍の、はたちの時であったという。いま本を手元においていないのだが”すらりとした長身の美少女”であったという。

1980年ころであろうか。


学校を横断する哲学のセミナーで出会い、その後セミナーのグループでの飲み会を開催され、その場に池田さんはいらしたという。

お酒がお嫌いでなかったことももしかしたら一因かもしれない。

たしか、どんなに飲んでも飲まれることなし、とどこかでおっしゃっていたような。

鯨飲級、ではなかったのかと推察する。

その後退官された木田先生は、慶応で3年ほど講義を持たれ、そこに池田さんは聴講にこられたという。

そして何年かのち、”考える時間を持つために当時の仕事を退職し、感傷旅行の帰りであった”池田さんと、木田先生は電車でばったり出会う。

同行した方に”どんなお知り合いですか”というのをさらりとかわし、池田さんと食事をされた木田先生は、出版社に入りたいという池田さんのご希望に直接のコネはお持ちではなく、ただ翌日会うことになっていた編集者に池田さんを紹介された、という。

木田さんはおっしゃる。”哲学者池田晶子誕生に一役買った”と。

一役どころではない、生みの親である。



その編集者の方が、池田さんと衝突し、自ら処女作を絶版されることになった因縁の方なのかどうかはわからない。

わからないが、池田さんが、出版社という”作る側”に行くことなく、ストレートに”書く側”に行かれたのもこの出会い、この紹介があってこそだ。

もちろん池田さんのことである、出版社勤務となられても、必ずやいつかはその著作を世に問われたことであろう。だがその時期はもうすこし遅れたかもしれない。


そして、木田さんは、小林秀雄の弟子であった。



いわば弟子筋の著作、”ひやひやしてちゃんと読めなかった”と木田さんはおっしゃる。精神的なわが子の姿を親としてみるのが怖い、ということもあったのだろうか。

だが、”小林の弟子”であった木田さんが、”小林に恋文を書く”池田さんをいわば同格として見て、その慧眼をきちんと評価されているのは、池田さんにとっても大変に嬉しいことであったに違いない。

幸せな師弟関係であろう。別に慶応の先生ではなかった木田さんであるが、やはり必要なとことで必要な先達にであうようになっているのかもしれない。


さて翻ってわが身。飲まされるアルコール漬けの日々が待っている。
だが”同行二人”、池田さんの魂が篭った文庫本をいわばお守り代わりに携えて、突入することにいたしますか。



・・・池田さん、お守りくださいね(苦笑)。

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