記憶が定かではないが。
裏をみせ、表も見せて散るもみじ
といったような句があったように思う。
あるいは表裏の順番が逆であったかもしれない。
確か池田晶子さんの著書で、一休禅師の時世の句として紹介があったように思う。
出典を確認しなくてはならぬのだが、いや、昨日歩いていて、ふとこの言葉が脳裏に浮かんで来たのだ。
人は、自らの衰えで寿命を感じるのとは別に、子供に超えられたな、と思うときに、自らの生を振り返る気持ちになるのかもしれない。
超える超えない、は技術ではないだろう。
多分、”心”だ。
子供に、優しく、心配してもらうと、”ああ、この子は私を嬉しく超えてゆくのだなあ”という風な、心持になったのである。
嬉しいような、そしてまた、一人になったような。
そんな心持が、やってきたのである。
そしてまあ、持ち物を意識した。
墓場にはなにも持ってゆけないという。だが、たとえば、棺おけには思い出の品を入れる。そして埋める、あるいは焼く。
絵を購め、それをわが身とともに焼くように望む金持ちがいると聞く。だが、これをきくと思う。”わがままである”と。
持ってゆけないものを持ってゆこうとする、エゴイズム。基本現世のものであるものを、あの世とやらに持って行こうとするあがき。
これを称して”悪あがき”。
というようなことを思えば、物を買う、ということは、どういうことなのだろうか、と思うのである。
一つの基準がある。我が好みを美意識として”次代へ遺せるか”というものだ。
かの人の好みは、これであった。こういうものが、好きな人であった。
いや、これは思い出の強要なのかもしれない。
だが、”やさしさ”を感じた時、そのやさしさは、その面倒くささを受け入れてあげますよ、というメッセージでもあったのである。
あなたを思うという、人生のひと手間を、掛けてあげますよ。
やさしさは、そういう意味をも、内包する。
だから、たとえば、持ち物は、身の回りに置き、”愛用”する。
たくさんは、いらない。買ってみて、厳選する。
偏愛する。愛玩する。弄ぶ。
当然、変形する。金属でさえ、それは傷、あるいはかすれとなって。
本であれば、たとえば書き込み。あるいは、裏表紙に貼り付けた一枚の”蔵書票”であるかもしれない。
物を買うとき、そして特に”なくてもいいが、欲しいもの”を購うときは、そんなことを考えるようになった。
物が将来必要であるから、買っておく、という時代があった。それは本であるときもあった。
将来、今はいらないが読むことがある可能性を感じた時。
それを保険のように買っていた。そう本は”一期一会”でもあるので。
マスプロダクトはそれがない。”別のどこかで、モット安く”。
一期一会感のない、買い物。それはすこしく楽しみが少なそうだ。
だが、とにかく、”これから先のため”の知識や物は、減らしてゆこう。
そして、買おう、”今から必要であるもの、これから一緒に過ごすもの、そしてもしかしたら喜んで引き継いでもらえるかもしれないもの”。
モノしかり、本しかり。
それこそが”遺す”の、正しい意味であるように思えてきたのである。
子供の、優しさに、触れて感じたこと。
これは、親である、ということで初めて得ることができる感触、なのかもしれない。
ありがとう、いや、”親が親をやるのは人生で初めてである”というのはこういうことだろう。
子供にとって親はなんとなく”ずっと親業をやってきたヒト”になぜか見えるのは不思議であるが、ただこれは、”そういう風にしておいたほうがいい”と世界が感じてそうしているような気も、なんだかするのである
ああ、そうそう、冒頭の句、”かっこいいものだけではありませんよ、とほほなモノも、あえて遺しますよ”。
そんなところもまた、”遺す”の作法のような気もするのである。