裏を見せ、表もみせて 散る紅葉
うろおぼえである。池田晶子さんの著書から教えて頂いた、一休宗純の句であったような気がする。
わたしの人生、なんとはなくだが、子供のころより、裏、とどうやら世間一般で言われている部分が自分の真の表ではないのか、という違和感を常に抱えていたような気がする。
例えば、一般でいわれる、真面目、が面倒だ。勤勉、も面倒だ。
外に出て遊べ?まあ、それが虫取りの類であればOKであったが。人と野球??とんでもない。
好きなもの?人間以外が多い。昆虫、爬虫類。幻想=怪獣・幻獣の類。
絵を描く?テーマは鬼だったり、骸骨であったり、翼をもつものであったり。
存在しない甲虫を描いて、区役所?に展示されて表彰で呼ばれたのは、嬉しい思い出だ。
本はもっぱら幻想譚が中心。友情やこの世や、運動や人生は読みたくない。
それが本音であったが、余り世間一般で歓迎されるモードではないように、子供のころは感じていた。
だから秘密裡に、心の中で育てる。チェリッシュ、という英語がそのコンコロモチを示しているなあ、と思ったのもそのころか。
ずーーーーっつとそれでやってきた。
今もあんまりかわらない。
好きな絵を描き、好きな幻想に浸る。
そこに、老い、はあったのだろうか。
時代が、変わったように感じるのは、実は子供のころ、別世界の住人であった”大人”が、実はその中身は自分とあんまり変わらないと知ったからなのかもしれない。
結構、自分と類似の趣味を持つ人が、増えた気がする。というか、そんな人がメジャーである気さえする。ファンタジーが市民権を得た。というより、もはやメインストリーム感さえある。
天邪鬼なわたしは、なんとはなく逆張りしたくなる。
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禅、では座禅中、みずからの吐く息、吸う息に意識を集中させる。
将(おく)らず迎えず、応じてしかして蔵(おさ)めず。
取り越し苦労をしない。
今、この瞬間のみを生きる。
身体に、住まう。
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様々な、金言が、賢者が、いま、ここにだけ集中すべきであると、説く。
変化した前を想うのではなく、変化後こそ今である、と思う。
今、ここ、このコンディションから、立ち上がる。
老い、とは、言葉の定義からして、若さ、から変化したことを言う。
老い、という言葉には、変化後ではなく、変化前への思いが付きまとう。
その”つきまとい”は、もしかして“臆見(=ドクサ)、と言われるものかもしれない。
老いた、のではない。変化後の今がある。変化後、ということばもいらない。
今、である。それだけが瞬間であり、無限である。
時間、というものは、ないのではなかろうか。
今、はでもたぶん、あるだろう。
いとおしい(何に?)思いをもって、そう思う。
今、は無限であり、永遠につながり、もしかしてそれは、”神”という語の意味に繋がるものなのでさえ、あるのかもしれない。