教育について書いてみたい。
頭が整理できているとはとてもいえない。直感的な表現になりそうだ。
まず、教育、とはあくまで”他者に対するもの”。他者に対する態度のひとつである。教え、育てる。ま、それを”自分、という他者”と定義することも可能だが。
通常は”自分以外の他人に及ぼす影響”のことだろう。
そのときの対象者が誰であるかによって、”教育”の意味は変わってくるだろう。
今回は、“我が子”ということで考えてみたい。
僕には、子供が、いる。2名、男。
自らの中での教育に対する感覚は?
あ、これはご自身が子供を持つ感覚がわからないとされた池田さんには、もしかしてなかった定義か?
もちろん、池田さんは想定し、考えられたであろう。睦田氏への対応はまさに”教育”という側面から始まったと思われるし(すぐに”伴走””友軍”という感じになったのは読んでいて嬉しかったが)。
まあとにかく。
僕が子供に求めること。これは”自分で御飯を食べられる能力をつけてください”に尽きるようだ。
たくさん食べたり、おいしいものを暖かい、あるいは涼しい環境で食べてください、というのももちろんあるが、これはあとづけ。まずは”自らが庇護できなくなったときに、自ら餌をGETできるようになってください”だった、いやであるかもしれない。
祈るように、そう思う。
いままでの親たちの、その切実な思いの形の集合が、あるいは学校となり、社会となったのではないだろうか。
強い個体、ばかりではない。どちらかというと、女性は自給力が、生きる能力が、高いと感じる。男は、弱い。
どうも生物界を見ても、そのようだ。孫悟空はお釈迦様の手のひらで踊ったというが、すべからく、男は、女性の手のひらで踊っている気がする。
ライオンはどうだ。基本、女系社会。そこにいわば庇護者、対外戦闘員として、オスライオンが入る。その性格からして、強く、若い方がいいのだろう。そこは冷徹な社会、たとえば人格(ライオン格?)がよいオスでも、弱ければ追われる。オスはあまり狩りができないと聞く。傷つき、年老い、死ぬだけだ。
その姿は極端ではあるが、その構図はたぶん総ての動物に当てはまるのではないだろうか。
男が考えたキリスト教。アダムの肋骨からイブが生まれたというが、これは深読みすればイブの肋骨から生まれたアダムの、深遠な意趣返し、ということではないかと感じている。
キリスト教の歴史の中での、長きにわたる女性への蔑視も、ある意味男という存在のあがきであるようにも感じる。
いや、話がそれた。いや、それないか。
つまりは男の子を持つと、そういう”生物界”のおきてを感じ、その中で最低限の”日々の餌”を入手してください、と、これはもうどうしようもなく祈るように思うのみ、それが教育だ、ということだ。あくまで、僕の、だが。
そしてできれば、できるだけ楽しく、朗らかに、餌をGETしてほしいものである。衣食足りて礼節を知る。衣食がなければ礼節はありえない。礼節をたとえば”考える”と読み替えても、いいだろう。
社会という名の他者は守ってくれる、とは思わない。自らが身に着けた社会性が守ってくれる、とは思う。
池田さんもおっしゃっていた。社会はわからない。社会性ならある、と。
あてにもならない”社会”、政治とい場合もあるが、をあてにしないようにしなさい、というのは、”自分で餌をGETしなさい”の中に含まれる重要な心構えであるだろう。あてにしたら、弱くなる。あてにしたら、心もとない。
まずは自分、という個体。しっかり理解して、最低限、病気にならない程度の餌を、GETしてください。お願いします。
これが僕の”教育”。言葉にするとなんだか身も蓋もないカンジだが。
男は、厳しいものがある。女系社会からはじき出されたオスライオンの末路は、いわゆる”キモくてカネのないオッサン”というカテゴリーに類される人々の扱われよう、ありようと、全く一致していることに、背筋が、寒くなる。
やはり、人間、偉そうにしても所詮は動物、なのかもしれない。