畏れ多くも池田晶子さんの著作にならって。
池田晶子”新・考えるヒント”P.39
永劫の時間の中で、魂の何であるかなど、しょせん人間でしかないわれわれにわかるわけがない。
だからこそわれわれは、それを知ることにのみ真剣な関心を向けざるを得ないのではないか。
「正義」もしくは「善い」ということも、それが魂にとって正しく、魂にとって善いのでなければ意味がないと、言える根拠もここにある。
同P.33
生きている、という生きているすべての者にとって、当たり前のこと、しかし、その何であるかを自覚しつつ生きている者は決して多くはない。
以上、引用おわり。
さて、10月1日より品川で勤務が始まった。なんだかふわふわして地に足がついていない感じがする。
しかし人間慣れとは恐ろしいもので、出張で来ていたころはよそよそしかった駅のコンコースが、早くも当たり前のものとして眼に映るようになってきた。
朝の通勤のリズム。何時に起きるのか。駅まで何歩か。どのようなルートで帰るのか。
どこだと座れるのか。
すこしずつ、リズムを刻むように、手探りで、そろそろと歩いている。
住んでいるワンルームマンション。まだ人があまり住んではいないようではあるが、人に会ったことはない。東京、といっても比較的下町的な場所であるようだが。
・導きを求めつつ、感謝の念を持って毎日を生きよ。
新しい仕事はまだよく見えない。まずは、周りの声を聴くことから始めたいと思っている。
そんな毎日は、生にとって、”私の”魂にとって、どのような位置にあるのか。たぶんそんなものはもともとない。そこから始めて、そしてどのように考えるか。そこがスタートだ。
死ぬときに人はチャレンジできなかったことを悔やむという。
いろいろな変化はあるが、そんなことをすこし考えながら過ごすようにしたいと、思っています。
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それから。
感じているのは”受け身であることの虚しさ”。
さまざまなコンテンツを、例えばTVで、食事で、受け身のみで対応していることは、虚しい。
少なくとも、意思を持って選ぶことを留意したい。
例えば池田さんはTVをほとんどご覧にならなかったという。
時間を侵食し、奪ってゆく。奪わないと生存できない存在だから。なので、今の子供たちが、TVを見ずに自ら選んだコンテンツを見ること欲すること、これはある意味当たり前のことではないかと思っている。
インプットは必要だ。良質な思想に触れれば触媒となってくれる。しかし意思的に取り入れなければ、気が付くと時間を奪われる。
そして深く退屈する。
なんらかの、どんな形かでの、アウトプットが必要だ。
自戒・自警をこめて、そう、思う。