夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

富永太郎。

詩人、というものを真に意識したのは、やはり池田晶子さんを通してであった。

”善悪は論理(ロゴス)において結晶化する。”

 池田晶子 「REMARK」 1998 Aug.18の項より

とおっしゃる池田さんに詩人の魂を、結晶化することばを見たのだ(ああ、池田さんのお名前の中にも、結晶がふくまれているではないか!!)。

詩はより短く、散文は饒舌だ。断片のような池田さんの言葉、それは巫女の宣託であり、かつ詩神(ミューズ)のつぶやきであったかもしれない。



池田さんの敬愛する小林秀雄に2人の夭折した詩人の友人がいた。

富永太郎中原中也である。

”富永は、一中で小林の一学年上級だったが、仙台の第二高等学校理科乙類に進学、生物学から一転してフランス文学を志すようになり、ランボーボードレールを意識した象徴詩を書いた。二十歳の時、八歳年上の人妻と恋愛事件を起こし、彼女の夫の医師が高校側に抗議したため、二高を退学処分になった。その後、上海や京都を放浪して、東京に戻って来たところ、小林の誘いで「山繭」に参加することになったのである。”

 高橋昌一郎 小林秀雄の哲学 P.46

(上を写していて気がついた。旧制二高とは現在の東北大のことだろう。僕の祖父は1900年生れ、1902年生まれの小林の1級上の富永は1901年5月4日生まれなので、一学年上か同級であろう。
富永は、生物学を専攻したようだが、祖父は物理であった。入学年度はわからないが、同時期にキャンパスにいたことは間違いなかろう。

遠くに感じていた詩人がなんだか身近になった。個人的なことで恐縮です)

富永は1925年11月12日、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と言ってみずから取り去る。午後一時二分永眠。享年24歳。

富永は画家をも目指していた。長く生きたいと望んでもいたようだ。だが23歳で肺の異常を指摘され、わずか1年後に死去。”肺炎”がまさに死病であったのだ。

いま聞く”肺炎”とは段違いの恐怖をよぶ病の名であったことだろう。


「山繭」第一号に載せた詩「秋の悲嘆」が高橋氏の本に引用されている。

苦しい、恋の歌だ。

”私は透明な秋の薄暮の中に堕ちる。戦慄は去った。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 私はただ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。
あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色の空を蓋ふ公孫樹の葉の光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土堀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない−土瀝青(チャン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都會などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る殘虐が常に私の習ひであつた......

 夕暮、私は立ち去つたかの女の殘像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状體に觸れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか?私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空氣を憎まうか?

 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フィジオグノミー)をさへ點檢しないで濟む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ−金屬や蜘蛛の巣や瞳孔の榮える、あらゆる悲慘の市にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の堅い斜面に身を委せよう。それといつも變らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう......

 私は私自身を救助しよう。 ”

恋の、そして自身の再生を願う歌だ。



恋、とは自分が相手に対してもつ思いの意想外の巨きさに、
とまどいつつもどこか誇らしく、
相手がこれほど自分のことを思っていないだろうと煩悶し恨み、
しかしどこかでもしかしたら相手の思いも同じくではないかとも思い、
そんな思いを四六時中もてあまし抱き込んで心のなかで吹き荒れさせて、
しかし外面は冷静に見えたりする。

そんな思いではあるまいか。




この歌を書き、再生を希う富永が、程なく求愛した別の女性から拒絶されて書いた詩。恥の歌、だ。



”恥の歌

 Honte!(オント)! Honte!(オント)!
 眼玉の 蜻蛉、
 わが身を 攫へ。
 わが身を 啖へ。

 Honte!(オント)! Honte!(オント)!
 燃え立つ 焜爐(こんろ)、
 わが身を 焦がせ。
 わが身を 鎔かせ。

 Honte!(オント)! Honte!(オント)!
 干割れた 咽喉(のんど)、
 わが身を 涸らせ。
 わが身を 曝らせ。

 Honte!(オント)! Honte!(オント)!
 おまへは 泥だ!”



恥ずかしさが、情けなさが、身をどこかにやってしまいたい想いが、痛いようだ。

救助したいこの身が、救助されない。





ダダさん、こと富永太郎の6歳年少の中原中也(18歳!)は、富永の病床を頻繁に訪ね、富永はその饒舌に厭いていたようだ。

中原はこの時期小林秀雄と絶交している。

中原は郷里の母親に富永の死顔の写真を送り、書いている。

”詩人の死顔です。 二十四才 心臓病で みんな長髪は吾等仲間では当然すぎるのです ”

軽薄なようで、中原らしい。母親に友人の死顔を送る事。母との、繋がりと共に、肺炎で死した友人を”心臓で”と書くこと。


自分なりの、"悼み”であったのだろう。

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