夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

”宇宙”は"私”と似ている。

”宇宙”は”私”と似ている。





・・・そんな言葉が今朝起きたらやってきた。


人は、"私”を探そうとする。わかった事にしたい。

"自分探し”という言葉もある。


・・・一部の人、例えば”池田さん”のような見者にはすごく嫌われたコトバだが。



捜そうとすることがまちがいですよ。


古くメーテルリンクは言った。チルチルはしかし、捜してみて初めて知るのである。

身近にある、いや、ここにある。ここってどこ?


ここだここだ。

そーかあ!!





これがこの話しの肝。







宇宙もそんなだ。


月ロケットも、(大部分のの)天文学者がやろうとしていることも、"自分さがし”みたいなものかもしれない。


たぶん、"宇宙の果て”はわからない。


”死後”があるかないか、あの世があるかどうか。


”生きている”人間にはわからないのと同じく。



わからない、問いとして、そこにある。



そして”わからないとわかる”


これがソクラテスに始まり、一部の”わかった人間”が、そのほかの”わからない人間”に伝えようとしたことだ。


はじまりが終わりではじまりなんだ。



ということ。


宇宙もそう。


・・・・だと感じる。







"科学”は僕はわからない。


というか、"ずれてますよ”と思う。


だから興味がわかないのか。本質的に。


わからないけど、わかったことにしすぎ。


わからないとわかってない。




しかし、”わからないとわかってから”考える科学も、そうするとあるのかもしれない。


生命倫理、とかはそこから始めるべきだろう。




技術論からいえば、個人のたとえば”こどもができない悩み”からいけば、個人の悩みを個別で解決しようとするなら、いまはこうなることは、わかる。



病気でしんどい。その人を前にしたら、答えは別になる。




池田さんもそのようにおっしゃっていた。



”クローン”に関し、おっしゃったことを思い出す。




命のなんたるかを知り、そして”命”を、クローンを、臓器移植を、必要とするひとがいれば、初めて移植可とすべき。

しかし、命のなんたるかをしれば、人は"臓器移植”を望まなくなる(はずだ)。

だから臓器移植はなりたたない。


証明終わり。




・・・とならない。宇宙もそう。



果てはあるのか。死後はあるのか。


多分似たような問いだ。



もちろんなんらかのアプローチは可能だ。しかしそのアプローチがたどり着くところ、

それをよくわかって、その限界をしり、


それでもかつアプローチする。



それはチルチルとミチルににている。




池田さんは夜な夜な"第3の眼”を(象徴的に)見開いて、お酒を燃料に宇宙に"とんだ”。


宇宙はたぶん、"夢”とも回路、つながっているな。



そのレポートが、たぶん”リマーク”である。



宇宙のはてを考えることは、死後を考えることと似ている。




無駄だ、といいたいのではない。


そんなものだ、というところからでも、豊饒な世界は見られるだろう。


しかし、”スタート時点の走者のコンコロモチ”が、


重要かもしれない、といいたいだけである。

REMARK―01OCT.1997~28JAN.2000

REMARK―01OCT.1997~28JAN.2000

リマーク 1997-2007

リマーク 1997-2007


”宇宙”は"私”と似ている。



そうおもって、ぼんやりした眼で宇宙を眺めることは、



けっこうファンタスティックだ。



空がレースにみえるとき (ほるぷ海外秀作絵本)

空がレースにみえるとき (ほるぷ海外秀作絵本)



夢と空(宇宙)と幻想と現実の、幸福な混交の例がここに。