中也は、1907年4月29日、山口県に医者の長男として生まれた。
小学校ではほぼ甲。山口中学で”文学に耽りすぎて”落第。16歳で京都・立命館中学へ編入。講師の京大生と展覧会へ行く、酒を飲む。愛称は”ダダさん”。
17歳、3歳年上の女優・長谷川泰子に会う。泰子は山口県で中也と同じ幼稚園に通っていたという。練習場に中学生が来て、ダダの詩を見せる。劇団が解散し、途方に暮れる泰子に、中也は言う。「ぼくの部屋に来てもいいよ」。
6才年長の富永太郎と出会う。詩人同士の邂逅、ただしタイプは違う。京都の富永へ、小林秀雄がランボオの詩を送る。
もう秋か。
ーそれにしても、何故永遠の太陽を惜しむのか・・・。
富永はそれを下宿の壁に大書、そして、
私は透明な秋の薄暮の中に堕ちる。
・・・私は私自身を救助しよう。
と書いた。
もうすぐ18歳になる大正14年、中也は泰子を連れて上京。
時に富永太郎、23歳、小林秀雄22歳、泰子20歳。何とみんな若いのだろう。
上京後8ヶ月、泰子は小林の下へ。
とにかく私は自己を失った!而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである!私はただもう口惜しかつた、私は『口惜しき人』であつた (中原中也 「我が生活1」)
小林との関係はどのようなものであったのであろうか・・・。
21歳、昭和3年、小林は泰子のもとを離れ、奈良へ。27歳、小林秀雄の斡旋で発行まで苦労した「山羊の歌」刊行。
29歳、NHK入社面接で”受付でもさせてください”というがならず。長男病没。激しい精神錯乱に襲われ、入院。30歳、使い古された「ざふきん」(青山二郎)のような姿で没した。病名結核性脳髄炎。
以上、新潮日本文学アルバム 中原中也より。
ながながと中也の人生を辿った。息苦しく、なるような人生だ。だがその詩はなお、あるいはだから、堪らなく美しい響きを孕む。
河上徹太郎は、「日本のアウトサイダー」で中也を第一番に挙げる。あるいは中也のことを、描きたいが故にこの本を書いたのではないか。すくなくとも、その一部は。
猫が鳴いてゐた、みんなが寝静まると、
隣の空地で、そこの暗がりで、
まことに緊密で、ゆったりと細い声で、
ゆつたりと細い声で闇の中で鳴いてゐた。
あのやうにゆつたりと今宵一夜を
鳴いて明かそうといふのであれば、
さぞや緊密な心を抱いて
猫は生存してゐるのであらう・・・
あのやうに悲しげに憧れに充ちて
今宵ああして鳴いてゐるのであれば
なんだか私の生きてゐるといふことも
まんざら無意味ではなささうに見える・・・
猫は空地の雑誌の蔭で、
多分は石ころを足に感じ、
その冷たさを足に感じ、
霧の降る夜を鳴いてゐたー
引用された中也の詩は、勿論中也の、詩を歌い上げる心を伝えるものであるが、それを引用しつつ、河上はなにか救いをも感じているようである。
小林は言う。”集団的に恋愛することはできない”。
抜き差しならぬ永遠の事実。俺一人の責任であり、努力である。自己と闘わねば思想などというものは生まれない。
中也も、小林も、河上も、そして長谷川泰子も、自分と戦った人々であったろう。自分の個性と闘う、芸術家で、あったのだろう。
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1985/05/01
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログを見る
- 作者: 河上徹太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/03/28
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (1件) を見る