夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

時間。

時間とは、まっすぐ前に流れるものである、

・・・と錯覚しやすい、ただ、たった今、この瞬間のことである。


これが、池田さんから僕が学んだこと。
(この通りおっしゃっているわけではありません。僕の、理解です)


そしてこの瞬間のみを、僕は、私は、持っているのであり、これのみであり、そしてそれは永遠でもある。


こんな風に考えたことは、池田さんを知るまではなかった。

思い出、過去、というものを、ある意味絡めとられる感じで、持っていた。

過去は事実ではある。しかし多分、”記憶”は違う。

記憶、とはなんなのか。都合よいものだけ、あるいは”トラウマ”と称されるものだけを、持っているものなのか。

池田さんが亡くなったのは、平成17年2月。2005年のことである。

ずいぶん時間が経った、と見るのか。少し前、と思うのか。


当時、例えば小学6年生だった人は、もう成人だ。
8年の時は、多感で密度の濃い、時間であったろう。

私には、どうだろうか。

1年が、唖然とするほど、早く過ぎてゆく。

瞬間を、慈しんで、いるだろうか。



”イギリスの小説家サッカレーは、「紳士とは、正直、温和、寛恕、勇気、聡明などの美徳を有して、これをもって優雅なる外的動作に体現することなり」と言っています(後略)”

 近藤新生 「魅力あるリーダーの条件」より

紳士たる自分をリーダーとして部下に見せ付ける、ということであればそれは元は”我執”のにおいがあるが、人としてこうありたい、と見せつけなしにあれば、それは”魅力”に繋がるものだと考える。

魂が、その人の内面が、立居振る舞いや、表情に表れる、ということは、あるように、思う。

例えば、動物にはそれは多分色(的なもの)として見えるのではないか。

英国人のいう”紳士”とは、ある意味”悟り”とも通じる要素なのかもしれない。



池田さんが、亡くなったことを知ったとき、これは僕にとって大きな転換点であった。池田元年、ともいうべきもの。

池田さんが、ある意味、身近に、中空に、浮かんで問いかけてこられるような。

(幽霊、ではありませんが。魂、ではあるような)


”修養の目的は、つまるところ、黙座して宇宙の霊光に己の姿を照らし出し、自立の人格を築き上げることにある。”
 神渡良平 「いかに人物たり得るか」

宇宙の霊光、というと少し宗教じみるのだが、宗教臭さを取ったところで、この言葉を、味わいたい。