夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

昔と、今と。(生きる、とはなにか)

セピア色の写真を見る。撮影年月の記載のある白黒写真を見る。

海外の写真を見る。


昔は、それは自分とは関係がない、という意識を前提に見ていたからか、被写体自体が暗かったり、時代の空気を暗く感じたり、ということが多かった。

しかし、いつのころからか、被写体自体は今となんら変わりなく、明るかったり、うららかだったり、長閑だったり、光り輝いたりしていたのだ、と感じるようになった。

そうした写真を通して、本当はその時代はどのようであったのか、を補正して見るようになった。

・・・世界が広がったような気がした。
そして少し悲しいような気も、した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人はなんとなく、自分のいるこの時間が最高である、と感じている。それは、それでいい。しかし例えば2500年の昔のギリシャがいまとどれほど違っているのか。裸で洞窟に住んでいるのではない。勿論スマホはない。というか電気はない。

電気の発見後、夜人間が活動することで、ガンの発生率が上がっているという。何百万年をかけて動物たる人間は太陽をベースに生活する種であった。電気が発明されての期間はそれと較べるとなんと短いことか。

生まれる瞬間の太陽を神と見る民族。それを、笑うことは、出来ない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

特攻に向かうパイロットにも、陽は同じように降り注ぐ。

”自分はこの世界に特段なにも影響を与えたり、遺したりすることは出来ないのだ”

今この自分の生、というものは、外部からのなんらかの理由で消え行こうとしている。

そのことの、途轍もない、無力感。

慄然と、立ち尽くすしかない。時は、戻らない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そんなことに、思いを馳せてみる。

なんともいえない、感じがある。これはなにか。不謹慎?罪悪感??


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


・・・今の”自分”を第三者の眼で、見なければならない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「なべてこの世はこともなし。」



それは長閑な毎日を寿ぐ言葉だと思ってきた。


しかし、もしかするとそれは、”いきもの”というものが”この世界”に結局なにができるのか、

そのことをただただ詠嘆する言葉、なのかもしれない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


そこの地点、”自分はこの世になにかできるのか”の思いからスタートして、

そしてなにかを、行おう、という意思を持つこと。


それが生きる、の意味、なのかも知れない。

・・・そしてそれが、”時と切り結ぶ”、唯一の術、なのかもしれない。