正月が明けて1週間(*)、いささかあわただしい日を過ごした。
通例、出社1日目は何とか謹賀新年モード、おめでとう御座いますなどと呟きつつ腰を折ってはいるが、2日目からは正月とはなんぞや、どこに行ってしまったのか、という感じになる。おまけに今年は賀詞交歓会のアレンジなどをおおせつかり、気分は旅館の宴会係である。
忙しい、とは心が亡くなるということだと読んだことがあるが、まさに実感。せっかくの新幹線の時間も予定外の爆睡。”考える”ことが出来ないのがいかに残念なことであるかを”考えた”。
これはいかん、というときにお守りが如く取り出すのは”困ったときの池田晶子”。何度読んでも、どこを読んでも”これは前読んだから読まなくていい”と思うことは絶無。無人島に流されるのならやはり池田晶子本を携えたいわけである。急に拉致されるなら、とにかくどれでもいいから引っつかんで拉致られたい。
などと気持ちもまだどこか”正月の非日常”感が残っているようだ。
さて、紐解いたのはたまたまであるが”考える日々Ⅲ”。ミレニアムのころの池田さんだ。冒頭を読んでこれまたピタリの正月関連。これはすこし神託めいてきたぞ。
- 作者: 池田晶子
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2000/12/01
- メディア: 単行本
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夕刊紙のミレニアム特集に呼ばれた池田さん。
(考える日々Ⅲ p.8)
”夕刊紙というのを、読んだことがない。”
・・・そうだろうなあ。。
”初めて買ってみて、若干の二の足。裸の写真や風俗の広告がいっぱい。”
・・・・いやあ、すいません、となぜか1999年の池田さんに激しく謝りたくなってくる。
”まあいいか、聖俗を超越してこそ鏡餅。”
これである。この肝の据わり方、そして侠気、とでも評したくなるようなすっぱりとした決断。さすがは池田さんである。
池田さんを呼んだ夕刊紙の記者殿は(どの夕刊紙かは不明だが)、もしかして断られるのでは、と思っていたかもしれない。動じず騒がず、ドンとやってきてその夕刊紙にそぐうがそぐわないかは関係なく香気あふるるミレニアム論を展開・開陳。
まさに俗地に舞い降りた鶴の風情、しかもその鶴、結構話せるのである。これでは記者殿でなくとも”池田ファン”になるしかないではないか。
このころの池田さん、”お正月特集、年頭の展望といったような企画にのみ、有難くもお声がかかり、あと1年は、ピタリと来ない。一年間の閑古鳥である。”
といった状態であったようだ。もったいないなあ、とは思うがその後の躍進を思うにつけ、やはり出るべくして出られたのだ、という思いを深める。
”これはどういうことかなあ、親しい編集者にたずねたら、決まってるでしょう、人が内省するのは年に一度でいいのです。夏の暑い盛りに営業で外回りしながら、池田さんの言葉なんか聞けません。お正月だけで、いいのです。”
ああ、このあたり、書き写していてもなんとも素晴らしい展開で、次もどんどん書き写したくなってしまうではないか。
”つまり私は鏡餅か。年柄年中そこに居られても困るような存在らしいのである。年に一度、来るべき年を新たな気持ちで迎えよう、そういう時にのみ、何がしかこの世ならざる異界の言葉も善き哉と、そういうことらしいのである。「オトソ気分で読んで、ちょうどいいのです」”
ここのところ、笑うところかもしれないが、こういう客観的なところが僕の大好きなところである。ちょっとまあ、苦笑するようでいて許す、態度。「しょうがないわねえ」。
これ以降、ミレニアムに関連し、時間に関するすばらしい考察が続く。詳しくはよろしければ是非原典を当たっていただきたいが、「千年」という単位のみが、「人間の」単位を表示しうるのだ、ということを、4聖を引用しての大展開である。痺れる。
なんだかんだでまだまだオトソ気分が抜けていない私、やっぱりオトソ気分には池田さん、のようである。
(*)勤務する会社の正月休みが明けて1週間、の意味である。