夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

村上春樹を読んでいる。

村上春樹”夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです”を読んでいる。

これは1997年から2009年までの村上春樹へのインタビューを集めたものである。

この本は、”僕はこうなんだが、君はどうだ”と問いかけてくる。

読み進めながら、僕は村上春樹との共通点と違う点を数え始める。そしてこの本は村上が僕に特別に、個人的に語りかけてくれている本のように感じる。

であるが、もしかすると、村上の本を読む多くの人が、この本が自分に向けて書かれた本である、自分が読まねばならない、と感じて読むのかもしれない。

普通はそういう本は余り売れないはずである。それが多く売れる。ベストセラーになるということは”誰にでもわかる”。

そうなった時点で、では読む価値があまりないかもしれない、という思いがある。あるいは、今は読むべき時ではない、という思いがある。

この本のなかで、村上春樹はインテイクの時期、ということを言っている。自らがよりよい小説を書く、という目的のために物事を貪欲に意識的にしろ、無意識にしろ、取り込む時期のことだ。大体45歳くらいでそうした勢いと自らのそれまでに培った技量のようなものが拮抗する、という。

このあたりを読んで、僕の中でもインプット(村上がインテイク、とより英語的に言うのに対し、より日本語的であるのが可笑しいが)という意識があるので、おお、と思った。

最近は小説、を読まないのである。子供時代は小説、フィクションンしかほとんど読まなかった。サイエンスフィクション、が多かったが、一番多かったのは今で言う、ハイ・ファンタジーであった。日常生活、子供の真実、といった本が大嫌いで、そうした匂いがすると避けた。オブラートに包んだ教訓みたいなものがある、と感じると、”馬鹿にするな”と腹がたった。その反動からか、別の世界を構築する物語に文字通り移動できる本ばかりを読んできた。ただ、翻訳ものはリアルであってもよかった。外国、とは異世界、であったからだ。外国の名前がついた時点でOK.

そして多分そんな延長で本を読んできて、プロットがある、オチがある、というものに飽きが来ていたのであろう、小説というものを余り読まなくなった。インプットの時期が終った、という風に感じていた。そしてそれよりも自分の内面に潜る、ということのほうが面白いと感じた。今の、生きているという、奇跡。そう、池田晶子さんの著作に出会ったのがとても大きかった。

生きている自分がしょうもない、と感じていたからの逃避の手段としての読書から、自らの生を見つめて考えることが面白くなったということか。自らの生を肯定できる考え方を与えてくれる。これが池田さんの本を読むときの愉悦であり、感動の元なのである。

そこで村上春樹。村上は自らの読者が、20代から30代の若者がいつも中心であり、普通は作家が年をとるにつれ読者層も年をとるが、自分の場合はそうではないと語る。人生の入り口で孤独に不安に自分の内面を見つめている、という時期の若者に支持されている、という。そういうときの村上はすこし誇らしげだ。読者、というものが本当にありがたい、という思いがにじむ。ここでもまた同じようにおっしゃっていた池田さんのことも思い出したが。読者は本当にありがたい。モノを書く人の、真実の声である。しかし村上は、結婚し、子供を生み、ローンを抱え、満員電車で何十年も通い続けるサラリーマンになると読む余裕がない、と分析している。池田さんの嫌いな言葉である”自分さがし”の時期の指南本、という面があるのだろう。その時期人は深く自分の中に潜り、自分の心の”地下2階”をこわごわのぞきこむ。

村上は又、ユングをきちんと読んでいない、という。書いてあることが自分が考えていることと近すぎると感じて、あえて読まない、という。自らに近すぎるものを避ける、というのは本能的に人が行うことなのかもしれない。似すぎていると自らの目指す最終形、というものとその類似のものを無意識に比較をし、それが”素晴らしい”ものであると萎えてしまう面があるからではないか。”ああ、もうこんなことを人が達成している、これはかなわない”と。

村上がそのように感じているのかはわからないが、例えばそのような、村上のつぶやきに反応して、考えている自分がいる。人はそのような働きを持つ本に引き寄せられ、村上の本をよむものだろうか。では、では、自分も読まなければ。

久しぶりにそういった気分になった。潮が満ちてきた、のかもしれない。いままでは外部の潮、つまり”ベストセラーはブックオフの105円コーナーに”落ちて”来たら読んでよし”というマイ・ルールをとっぱずしてもいいかな、ムラカミハルキは、というわけである。

ベストセラーには良い本がたくさんある。なんと言っても池田晶子さんも、”14歳からの哲学”で知ったのである。内田樹”日本辺境論”もいい。”バカの壁”もいいし。そして時間が経ってもなかなか105円に”落ちて”来ない本は、良い本である可能性が高い。ベストセラーで買われて、そのあと持ち続けている人が多い、あるいは半額でブックオフで売れる、ということであるからである。だぶついて初めて105円になる。いい本だと、普通の古本屋だと店主が目利きであるから安くなりにくい。ブックオフは、時間が経つと自動的に安くなるから、だぶついてくると眼に触れてくる。勿論105円に落ちてきても、まだ市場価値が高いとすぐ売れるから、なかなか眼にすることはない。それがたまに眼に触れてくると、”ああ、これでやっとお許しが出た(誰に?)”となるのである。

そしてブックオフめぐりが楽しいのは、そうしたシステムの中で、自分にとっては有用な本を105円で買えた時だ。子供っぽく、”自分は目利きだなあ(苦笑)”などと楽しめるのである。105円で。これは楽しい。村上は古レコードを探していると本当に楽しい、という。ちょっとその気持ちはわかる気がする。

そんな105円本、ほとんど読まずに”そのうち読む棚”においてあるのだが、村上の本はたまにしか出ない。”アフターダーク”と”英雄を謳うまい”レイモンド・カーヴァー全集第7巻3200円2002年発行(笑)、がこの2年位の成果である。カーヴァー全集はほとんど読まれた形跡がないから、ああ、翻訳はやっぱり読まれないのか、というちょっとわびしい思いもありつつ、これは安いよな、ということで購入。アフターダークは、”近来の村上さんの本ではちょっと珍しいくらい不評な本”ということでもあって、105円に落ちたのかもしれない。

アフターダークは読んだのであるが、ちょっと”あれ?”という思いはあった。申し訳ないがちょっと”普通のストーリー?”という感じ。多分プロのプロレス者と自負する身には、女子プロ出身というキャラクターが出た時点で色眼鏡がかかってしまったのだろう、と思い、自ら判断を停止したのだが、でもちょっと、”あれ?”ではあった。本の評価がそうであった、というのを読んで、そうなのか、という思いである。そんな確認もできたのである。

そして、村上春樹を読んでみようかな、ということになってきた僕は、”海辺のカフカ”上下巻を購入した。ブックオフに2冊並んでいるのを確認していたからである。1冊850円を100円クーポン2枚で合計1500円。1000円以上の本を買うのには気合が要る。自分の中では”最上級評価”である。

1Q84、が105円になる日は来るであろうか。

村上を再び読んでみようかとなったのは、自分もストーリーがどうなるかわからない、ストーリーがわかっていたら詰まらない、という書き方をしていると知ったことからだ。それは”普通”の書き方ではない。それは非常に興味深い書き方だ。どちらかというと”魂の深堀”である。そんな本は是非読まねば、ということなのである。