夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

人は、魂の入った言葉(言霊)に反応する。

ユングが「死者への七つの語らい」で示した「善にして、同時に悪なる<両位>の霊なるアブラクサス」が、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」に登場するのは、両者の間になんらかの接触(間接的である可能性も含めて)があったことによるのだろう。

ヘッセの末子の治療をユングに受けていた、ということがあるらしいが、いずれにしても僕が「デミアン」を読み、全く別のアプローチから(つまり池田晶子さんの著作を通じて)ユングに出会ったことは、自分の中で共時的共鳴が発生した、という感覚がある。

デミアン」を読んだ時のデミアン、そして「大いなる母」のイメージは強烈であった。少年にして老人。聖にして邪悪なる予感。

ユングの「死者の七つの書」では、死者たちへの教えは無から説き起こされる。そして”無は充満と等しい”。

自分自身を区別しないと、我々の本質を超え、クレアツールを超えてしまい、それはクレアツールの死である、我々は区別しない程度に応じて死んでいる、

とされる。
ここで僕は池田さんを思い出す。生きながら死んでいる。宇宙大の意識をもち。
上記でクレアツールを”生”と捉えるなら、区別しない程度に死んでいる池田さんの境地に瞬間触れた心地がする。

ユングは一様性を”原始的で危険”であるとする。池田さんは一様性を肯定的に提示していたような気がする。余りに”個に陥りすぎた生がこの世、この日本には溢れているとして。

そして、神と悪魔をつなぐ”はたらき”こそその上に存在する”神の上の神”であるとする。そしてそれは”アプラクサス”と名づけられる。

人はアプラクサスから、あらゆる点で不確定な「いのち」、善と悪との母なるものを経験する。

ユング自伝2 を参考にしました。

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