”デカルトは、この最初に出した、いちばん大事な著作を、なぜ、ラテン語という当時の学問語を捨てて、日常フランス語で、しかも匿名で書いたか。”
”なぜフランス語で書いたかについて、デカルトは、この本の中で、こう言っている、「古人の書物ばかりありがたがっている人々より、誰にも備わっているおよそ単純な分別だけを働かせている人々の方が、私の意見を正しく判断するだろうと思うからだ」と。そして重ねて言う。「私が、私の審判者と望むものは、常識を学問に結びつける人たちだけである」と。”
”「おかげで、私は、他のすべての人々を、自分自身で判断する自由を得た。これはと思うような学説は、今の世間には一つもない、と考える自由を得た」と。”
”(前略)原理となる規則はたった一つなのです。「疑う余地のないほど、きわめて明瞭に判然と、自分の心に現れたものしか、判断のうちに取り入れぬこと」”
小林秀雄 ”常識について”より
小林秀雄がデカルトについて語ったこの講演を元にした文を読んでいて、デカルトのアプローチが期せずして池田晶子さんの現代へのアプローチと共通している、という印象を持った。
デカルトが当時の平易な言語であるフランス語で、匿名で出版したこと。小林は、書名も一般の”方法叙説”より、砕いて”私のやり方”としたほうがよっぽどいい、という。
わかりやすく書いた本が、こうして翻訳を経て哲学用語により入り口で逡巡を生む。訳者に悪気はないのだろうが。
池田さんは、いわゆる学術用語、哲学用語を避けて、僕でもわかるような平易な言い回しとわかりやすい卑近な例で、哲学を語った。世間、この世のなんだかんだがいちばん現れている週刊誌上の連載という場で。
自身は池田晶子、という人間をやってはいるが、自分とはなにかという問いで以って”池田某”が語る、とした。そして、自著に書かれている真実を、池田晶子が言った、ではなく、普遍の真理、として読者が理解し、把握してくれることを希った。
こうした態度は、デカルトが著作を世に問うた姿勢と、驚くほど似通っている。考えれば、真実を求める徒として、それはいわずもがな、のことなんのかもしれないのだが、しかし、こうして小林秀雄が教えてくれると、僕なぞは初めてそういうことを知るのである。
池田さんは四聖と呼ばれる人々が、結局同じように”いって帰ってきている人々である”と言った。デカルトと池田晶子しかり。真実を前にして人がとる態度、というのは、やはり自然に共通性を帯びる、帯びざるを得ない、のであろう。
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