夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

秋。

薄曇りの空を見ながら、川沿いへ向かった。自転車のキイを排水溝の金属のカバー越しに落としてしまう。

そこには、移動防止に金属製のネジがあり、持ち上げて取り出すことが出来ない。予定外の事態に仕方なく家まで歩く。川沿いを歩くはずが、街の路地を縫って歩くことになってしまう。まあ、この歩きが面白い歩きになるようにするか、と気持ちを切り替える。

思えば笑ってしまうような、”どうしたらいいかわからない事態”に急に落ち込んでしまったものだ。客観的(これを小林秀雄は講演で”かっかんてき”と発語していたことを思い出す)に自分を見る余裕が無いと、結構落ち込んでしまう事態ではある。

落ち込んでも、落ち込まないでも事態は変わらない。40分くらいかけて家に着く。スペアの自転車のキイをもち、車の荷台部分を調整。いわゆる買い物用のママチャリ、というものは、結構かさばって、車に乗せるのは事なのだ。

この自転車、3000円で福引で当たったという社宅の主婦から譲り受けたものだが、引っ越す前までは毎日の駅までの移動に使っていた。いまは歩いている(駅の駐輪場が有料になったこともあり)ので家においておく時間が増えたが、朝の川沿いの散歩の際はいまだ役に立ってくれている。

座席を限界まであげて、ハンドルの向きも少し変えているので、見た感じは”いじめて”いるように見えるのかもしれない。いいオッサンである僕が、ある晩本屋に向かう道で、警察官数人に取り囲まれて、盗難品でないかチェックを受けたのはかなしいというか、ちょっと情けない気持ちになった。いかにも盗んだ感じなのであろうし、スーツを着たいい大人であるつもりの自分も、盗みそうに見えるのである。ある意味、独特の格好をしていて、変わった人間に見られて我を忘れて怒った森鴎外の気持ち、所詮自分はそう見えるのか、という気持ちに通じるものがあった。

まあ、情けないが、笑ってしまう余裕もかろうじてあった。その気持ちは、カギを落として、拾えない気持ちと、地続きなものがある。いわゆる”とほほ”という気持ちである。

”万人にとっては、時は経つのかもしれないが、私たちめいめいは、蟇口でも落とすような具合に時を紛失する。紛失する上手下手がすなわち時そのものだ。そしてどうやら上手に失った過去とは、上手に得る未来のことらしい。”

昭和25年1月の芸術新潮に掲載された小林秀雄の”秋”の一節である。昭和20年(1945年)に終戦を43歳で迎えた小林は、翌21年の2月に創元社より「無常といふ事」を刊行している。そして8月には明治大学の教授職を辞任、そのころ水道橋駅のプラットホームから落下する事故を起こしている。そして12月には「モオツアルト」を発表している。

小林にとって、終戦後の数年はいろいろあったようである。その後昭和23年4月に46歳で創元社の取締役に就任し、6月には鎌倉に移転している。小林は鎌倉の文士、という印象であるが、鎌倉に住むのは46歳以降なのである。教授職も辞しており、著作を発行する創元社の取締役になることで、文筆に専念できる状況が深まったのだろう。

”「私の夢」なぞというものがないように、「私の空想」などというものはない。少なくともそう信じなければ「私」というものは何者であるかわからぬ。”(P11)

”「私」の表現なんていうものはない。そんなことは言葉にもできない。歴史とは、無数の「私」がどこかへ飛び去った形骸である。”(P.12)

よく晴れた秋の日の午前、東大寺の二月堂に登った小林はこんなことを考える。20年前に暇に任せて御堂の脇の庫裏めいた茶屋で、プルーストの”失われし時を求めて”を原書でひっくり返って読んでいた時のことを思い出しながら。
そして”いまいましい空想”から逃れるために、”徒競走でもするようにどこまでも歩いた。”

60年後にならんとする秋の日、小林のような夢想を求めて川沿いの道を目指して自転車を駆り、結局僕は夢想さえも得られず、とほほ、を得た。

常識について (角川文庫)

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