このブログ、一番初めに書いた文章は、早朝の川沿いの散歩のことであった。
今、季節外れの予定外の休暇の中にいる。今週一杯休みで、来週も祝日が2日。子供がインフルエンザに罹ったので、会社からは”念のため1週間は出社に及ばず。”
いささかとまどうが、会社に入ってから、これほど長い個人的な休暇を取ったことはない(夏休み等、一斉に取得するものは除き)。
大げさでは在るが、働く、ということを見つめなおす、一つの句読点のような休みになるような気もする。
朝、川沿いを歩いた。朝早くの太陽とセットで見る水面やススキは、普段とは違った姿をしている。自分以外は人がいない。正確には車は通るが、車の中の人は、この場合別の世界にいる感じだ。
草の中を歩く。9月になって除草をしてくれたようで歩きやすくなった。8月の終わりころは、草が多くて、ちょっと草を掻き分け、という感じで、種や草まみれになっていたので、助かる。
草と道と、青空と太陽と我のみ、という感じは、この早朝に特に感じるのはなぜなのか。予定に無い長期休暇に戸惑い、翌日は昼間に同じ場所をあるいたが、同じ場所だが受ける印象は全く違うのに驚く。頭上の太陽で汗が纏わりつき、草も、水面もよそよそしい感じがする。勿論気温が違うのだが。同じ場所を歩いても、グッタリと疲れる。
早朝の世界は特別な世界、という感じがする。そんなことを考えていたら、そのことを歌った詩に出会った。
よろこび ヴェルファーレン
おお、燃え上がる朝にはじまる美しき日よ
烈々として壮麗なる大地ほこらかに
めざめたるいのちの香り強くはげしく
存在はすべて酔いしれ、よろこびにおどる。
ありがとう、わたしの眼よ、
すでに老いたる額の下でなおも澄んだまま
はるかにきらめく光を眺めうるを。
ありがとう、わたしのからだよ、
疾風やそよかぜにふれて、
なおきりりとひきしまり、おののきうるを。
すべてのもののなかにわたしは在る、
わたしをとりまきわたしにしみわたるすべてのなかに。
厚き芝生よ、かそけき小径よ、
樫の木々の茂みよ、かげりなき透明な水よ、
あなたがたはわたしの記憶であり、わたし自身となる。
おお、熱き、深き、強き、やさしき跳躍よ、
もしそれが巨大な翼のように君をもちあげ、
無限へとむかわせたことがあるならば、
ひとよ、つぶやくな、不幸な時でさえ。
どんなわざわいが君を餌食にしようとも、
思え、ある日、ある至高な瞬間に、
この甘き、おどろくべきよろこびを
心おどらせてあじわいたるを。
君の魂が君の眼にまぼろしをみせ、
君の存在を万物の中にとけこませ、
このたぐいなき日、この至上の時に
君を神々に似たものとなしたるを。
P.17-18 神谷美恵子コレクション ”生きがいについて”より
世界霊魂、といった時に、植物や動物が入ってくるのかはわからないが、生きるもの、以外のものも含めた万物に対して一体感を感じる時がある。それはこんな朝の光を浴びていたりするときだ。
水の精、石の精。石も水も移ろい行くものだ。では其処に魂はあるのか。ロボットに魂は?
魂は移ろい行くもの、全てにあるある儚さのようなものだとすると、その答えはYESとなる。
神話や伝承で、水の精、などというのを聞くと、なんて原始的な感覚か、と思ってきたものだが、最近すこし違った感覚が出てきた。そういったことを言っている人たちは、そんなばかな、と冷笑する今の僕たちの感覚は同じように持っていて、その上にさらに、”でも、こうなんだよ”という感覚でもってそういった考えを呈しており、それに対してなんだかわからない納得感、が少なくとも人には自然に生じるのではないか。
要は”わからない”というあの感覚。全てを知らないのに、知っていると思わされる(例えば科学に)、その不自然さを超えるもの。
あの世を信じるか。幽霊はあるのか。
最近のアンケートではそういったものを信じる率が上昇しているという。新聞の論調は、愚かな人が増えている、というものだが、果たしてそうなのか。
人間としての自己保存が、そこに働いているような気がする。”そう思うほうが安心する、なぜか”というものだ。
ここでは”真実に”そんな魂や精があるのか、ということをことさら追求しない世界だ。そういう風に感じる、そうだったらなんだか気持ちがいいような気がする。
そんな世界だ。
森羅万象、という言葉が示す、叡智、というところであろうか。
さて、本日は晴れそうだ。今日も散歩に行くとするか。
夜明けはもうすぐだ。
- 作者: 神谷美恵子,柳田邦男
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