夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

良い質問、とは何か。

良い質問にはいつも答えがない
1973年のピンボール 村上春樹 P.196

哲学とは、疑問に答えることではなく、疑問の下に線を引く行為である、とおっしゃったのは、誰だったろうか。池田晶子さんであったか、はたまた内田樹さんであったろうか。

 

いずれにしろ、答えのあることは、本来疑問ではないだろう。それはその問いを持った本人の「経験」が不足していたことにより、発生した事態であるかもしれないし、今の時代であれば、「ケータイでググれば」答えはコンビニエントに入手できる、ということになっているのだろう。

 

こうした知識が得られにくいところをよりどころとしていた、「20年前のノートで講義をしている」講師は行き場をなくしがちかもしれない、そうでもないのかもしれない。

答えがなさそうだな、という問いは、実は問い自体が美しい姿をしている。

 

そのことを考えているわたしやあなたは、「魂として、魂で考えている」からかもしれない。「人間は考える葦である」という言葉の真意は、存外そのあたりにあるのかもしれない。

 

わたしは数学が嫌いなのだが、通常の計算能力比較というしょうもない数学の行きついた先に、どうやら美しい「数と調和」あるいは「数の調和」というべき世界があるようにも感じている。だがそこに到達する権利(というか手段)をもつのは、かずかずの「算数能力確認」をクリアした猛者たちだけである、具体的には「理学部の人たち」だけの特権である、という風に思ってはいる。

 

池田晶子先生は、(あ、池田さんはまじめに考えている年若い人々にこう呼ばれるのは好んでいらしたが、おっさんのわたしは本来呼ぶ権利がないのであるが)そうした世界がどうやら理系のその先、極地には広がっており、それは哲学が希求する世界とイコールあるいは同根である、と思ってらっしゃったように理解している。

 

わたしはとにかくどうにも論理的思考、というのがめんどくさい。なぜこんなに、と絶望するくらいめんどくさい。そしてこれは「魂のくせ」であると思い、すっかり諦めている。

 

 

よい質問、の話であった。

良い質問は、たぶん「よい生活」からぽくっと生まれてくる気がしている。あるいは「フロー」と呼ばれる意識の中とか。

 

個人のしがらみや損得計算から、無理やりにでも逃れ隠れる、それは多分強制的には座禅や瞑想、という手段が手段としては可能性があるのであろうが、いずれにしろ透明で純粋で、純真でもある。

 

その質問のこと自体を、「こたえはなんだろう」と考える姿勢、そのことだけでもたぶん相当、幸せになれるだろう。

 

(知ることより、考えること。池田さんの著書名でもありましたね)