夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

がんばり地獄とずるさ狩り。

日本社会は、絶え間の無いイス取りゲームで、ひたすらがんばり続ける”がんばり地獄”の中にあり、それはとても辛いから、ちょっとでも楽をしているように見える人間をひきずり下ろそうという心理が働く。それが”ずるさ狩り”であり、いまならさしずめ公務員狩りであろうか、という書評を昨日の読売新聞で読んだ。

妙に心に残って、河村名古屋市長が市職員の給料を下げようとした時の市職員側のコメントを思い出した。そこには自分たちが常に”ずるさ狩り”の標的である自覚が感じられた。つまり、文句は言っているがあんまり声高ではない、”わたしらがそういわれるのは仕方ないけど、あんまりいじめんといてちょ”(名古屋弁が合っているか不明だが)という感じ。

蛇足だが、こうして方言を間違って(いるかはよくわからないが)使用しているのを見ると、マザータングの人は気になってストーリーに入り込めない。昨日藤子・F・不二雄の”パーマン”を読んでいたが、大阪出身というパーマン4号こと”パーやん”の喋りがどうも気になってストーリーが頭に入らなかった。僕は神戸出身なので、微妙にスピードや言い回しは大阪の人と違っている感覚はあるが(僕にとって初めて違う地方の言葉を意識したのは大阪弁であった!)、まあ、そんなに変わらない、という印象もある。
しかしどうもパーやんの言葉に違和感を感じるのである。藤子氏の考証に間違いがある、というところまで言う気はないが、なにか違うのである。もしかしたら、年代的なものもあるのかもしれない。河村市長がピュアな名古屋”言葉”だという言葉は、すでに今の40台でも余り言わない、という感じだという。

話がずれたが、言いたかったのは、確かに公務員は楽をしてずるいのかもしれない。しかしそのずるさを指摘する心理、指摘したいという思いの発生するところの貧しさである。
自分が貧しいから、腹が立つからいじめる。この心理は学校での家庭が崩壊しているから腹がたつからいじめられると感じるヤツをいじめる、この心理と全く同根である。

いわゆる”はらいせ”というやつである。

所詮大人も子供も同じである。仕方がないが、それでは本当に公務員がどうすべきか、という問題に到達せず、ひたすらいじめのやむのを待つしかなくなる。河村市長にびびる市職員のように。

しかしそうしたいわゆる脊髄反射的な、動物的な反応の先に、もうすこし違った、本質同士の語らいという次元があるはずであり、其処からでてくるものがより両者にとって望ましいものになりうるのではないか、と感じる。

河村氏に感じるやり方と、空虚なCMを送りつけていたやり方の先にあるもの。これを求めることはなにかのきっかけになるのではなかろうか。

漠然とだが、そう感じるのである。


パーマン 1 (藤子・F・不二雄大全集)

パーマン 1 (藤子・F・不二雄大全集)