夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ハロウィンと地べたに座ること。

このテーマを思いついたのは、最近よく引用させていただく内田樹先生(師といってもいいか?)の2001年ころの著作で、ジベタリアンが地べたに座っている理由に、ご自身が渡い時特攻服を着て雪駄であるいていたら、サラリーマンがモーゼに出会った海のように道をあけた、ということを思い出され、地べたに座ったり、特攻服を着たりすることは、逆にみんなから視線を避けさせよう、と無意識に思っているからだ、という文を見たからだ。

 

最近はこのころよく見た地べたに座る人をあまり見ない気がする。それはコロナでそもそも学校にあまり行かない、ということなどもあるのかもしれないが。

 

人が思わず本能的に危険を感じて視線を逸らす格好、というのには、たぶん流行り廃りがある。古くは改造学ランや、族ファッション、女子であればヤマンバファッションなども思いだす。そういう人を見ると、いわゆる一般社会の人々の目線をあつめて、集めたいのかと思いきや実は見られたくない、という心理がある、というのが卓見だ。

 

たしかに地べたに座る気もちになってみると、なんとなくわかる気がする。これは私が、台風等で、新幹線が止まり、やっと来た列車にすし詰めで乗ったときにも、感じたものだ。

 

私自身は、地べたに座ることが可能だ。新幹線であれば、新横浜から名古屋まで、約2時間弱、立ちっぱなしとなるのである。そうなったとたん、私は躊躇なく紙をひいたうえに座り込んだ。

他にもそうする人がいなくはなかったが、大多数の人は立ったままであった。

しかも、カバンも腕にひっかけたまま。

 

地べたにすわることのみならず、カバンを列車の床に置くことも、普通の人々には相当心理的ハードルが高いのだ、ということを学んだのだ。

 

ではなぜ、最近は皆無ではないにしろ、地べたにすわる人をあまり見ないように感じるのだろうか。

仮説だが理由を2つほど思いついた。

 

それは一般社会からの匿名性を得る手段がほかにもあるから、あるいはできたから、かもしれない。

 

一つ目は、これは実は1年に一回しかないので、違っているかもしれないが、仮装やコスプレ。ハロウィーンで一般の人々も仮装することが普通になったこと。これにより”目立っているようで匿名性の後ろに隠れる”ということが出来るだろう。

もう一つはマスク。息苦しくはあるのだが、そして結構判別されているのかもしれないのだが、私はマスクをするようになって、世間での匿名的移動が心理的にすごく楽になったのだ。

 

別にほとんど知り合いはいないここ名古屋だが、まあ、会社の人とかはいるかもしれない。だがマスクをしていると、それらの人々に気づかれない(ような気がする)。マスクのない時は、サングラス効果のある素通しのメガネ(伊達メガネともいいますか)をすることで、匿名性を得ている気がしていた(けっこう普通に気づかれていましたが)。

 

いま、マスクをして、伊達サングラス(素通し)をすれば、これは2重で心理的安全性を感じるわけだ。芸能人がバレバレでマスクやサングラスをしているのと同じ心理的状態かもしれない。

いすれにしても、かつての高校生が地べたに座ることで保護色のように目立つようなめだたなさを得ていたのと、類似の効果がごくごく簡単にマスクで手に入るのだ。さらにはその行為は強く奨励されているわけでもあるし。

 

いずれにしろ、会社や学校から隠れたい、目立たなくなりたい、というのは、そこからの逃避の気持ちが裏にある。もしかしたら、会社帰りの飲酒も、酔っ払って心が生理的に逃避することを、求めている面もあるのかもしれない。

(疲れると、やはり逃避したくなりますね。。。)