夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

読書の本当の愉しみとは。

”小説を創るのは、小説の作者ばかりではない。
読者も又、小説を読むことで、自分の力で作家の創る所に協力するのである。
この協力感の自覚こそ、読書の本当の楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。

いろいろな思想を本で学ぶということも、同じ事で、自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によって自分を失う事が思想を学ぶ事ではない。”

       ”人生の鍛錬”より    読書の工夫  小林秀雄全集 12-266

小説ばかり読んでいた頃があった。ノンフィクションと呼ばれるものが多分生活の苦しさやそれを通した感動、つまりより身体に直結した分野で、本質的にそういった分野が苦手だなと感じていた子供時代の反発が、そこにあったように思う。

荒俣宏の本を読んで、陳腐だが、事実は小説より奇なり、といった感を持ち、これもありがちであるが、澁澤龍彦の文献学的な世界に幻惑され、カタログ的に幻想画を探しているうちに、小説以外の本の世界の豊饒さに気が付いてからは、小説に拘る思いは小さくなっていっていた。

最近小説は余り読まない。読みたいのだが、主な理由は時間と空間のようだ。小説を買って、思い入れを持ってしまうと、処分できない。本の中にある思いまで処分するような気がするのである。しかしもう置く場所がない。本で部屋はパンパンだ。引っ越してまだ開けていないダンボール箱が50個はある。なのに用意した本棚は、引っ越してから買った本で殆ど一杯である。

もう一つ、やはり人の創作したものを受動的に受け取り続けていいのか、という思いもある。自ら発信しなくていいのか。出来るのか、というのはあるが、したい思いはあるようだ。
で、なんとなく小説から遠ざかっていた。時間がなく、エセンシャルな本だけ読んでいたい、という思いもあった(で、池田さんの本などを何度も読むわけだが)。

小林秀雄はそのあたりを鋭く突いてくる。小説を読む真の楽しみは作者と読者が作り上げるものだという。受動だ、と思っていた自分は実は小さかったのかもしれないな、という気がする。

しかし、場所はない。このところはどうしてくれるのか、といいたくなるが(冗談です)、まあ、しかしなんとなく図書館で借りて読むのと、食感がちがうんだよなあ。
なぜだかわからないが。

自分が、小説を通して、作者とシンクロして、あるいは触媒となって、ブラッシュアップされる。それはいい。だが最近思うのは頭の許容範囲だ。覚えられない限界まで来ている気もする。

最近のCM製作者の印象として、今の若者は自分に関係が無いと思った情報は、綺麗さっぱり全く頭にのこさないという。自然に頭に入る前にシャットダウンをする感じだという。これは小さい頃から余りに膨大な知識・情報にさらされすぎて、自然と自分に必要な情報以外取り込まないようになっているのではないか、というのが製作者の印象である。そしてそういう消費者に今までのように出稿量を多くして印象付ける、という手段はもう通用しない、と言っている。

これはもう、情報の過多、という現象に対する人間の変化であろう。そういう意味ではインプットそのものが入ってこないようにした、インプットを極力減らして、自分で考えた池田晶子さんは、純粋に思考に沈溺する方法をおのずから会得していたような気がする。自分に合ったもの以外を、くだらない、と切り捨てることによって。

受け取るものも、とことん吟味して、本質を見切る。だから情報のシャワーを浴び続け、その知識の多さに疲弊するより、よりシャープで本質的な考えを持ち続けることが出来る。

それが、新聞、テレビ、ネットを極力見ない、受け付けないという生活スタイルになったのであろう。

しかし、一方、数は多くなくても、古典、呼ばれる時代の審査を経た書物を、何度も吟味耽読し、枕上、馬上、厠上、順番ははっきりしないが、そういったところで、不意にはっ、と感じるものがある、そういった一瞬を、得ることは素晴らしいし、得るためには少なくとも読まねばならないだろう。

結論は、古典、を読め、ですかね。
自らの書物はすでに古典である、との自信を示した、そしてその通りだと感じる池田さんの本を始めとして。

あと、馬上、いまでいうなら電車の中、かもしれないが、ここは結構いろいろ思いつくような気がする。

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)