夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

こころ。

こころ、とはなにか。

糸井重里”インターネット力”より。

人間社会の変化

 農業社会 食べ物を持つことが目的
 工業化社会 モノ・力を持つことが目的
 情報化社会 コト・知恵を持つことが目的
 
 魂(スピリット)の社会 
 →所有することから自由になって魂の満足を求める

ノウハウ、スキル、という形で求める無形の知識も、持つことが得である、金を出しても取得する、という思いがあるのであれば、所詮モノを買う欲望とその根っこの欲望は同根である。

各社会の初期は、いままで手に入らなかったモノを手に入れる純粋な喜びが勝っていたのだろう。日々生きるのに十分な食料を入手できる純粋なヨロコビ。初めて工業化が可能になって入手した製品。初めて知った知識。

しかしそれが当たり前になり、陳腐化することで、人間は純粋なヨロコビをもてなくなり、堕落せざるを得ない。
そして次の社会へ移行する。

過ぎた社会のヨロコビは、移行した後の社会から見れば、すでに手垢にまみれ、改めて追求したくない思いを持つ。しかし、そこに隠れている本来の純粋なヨロコビの後ろにあるもの、これが”こころ”ではないか。

手垢にまみれることは、すでに陳腐化した価値観の押し付けとして後からきたものの眼にはうつる。それを超えて、例えば無理やりその世界に入ることで、陳腐性の後ろにある精神性に気付くことができれば、その精神性を楽しむことができる。

しかし、その押し付け感でもって接する陳腐性を超越することは、大多数の社会のニューカマーには困難だ。

山折哲雄 「こころ」の戦後史を語ろう 読売新聞 6月23日

「こころ」の変遷を言葉の変遷で見ている。

  稲作→コメ作り
  腹八分→食べ放題
  ツール、スキル、ハウツー

勿体無い、大和ごごろ、こころの時代。

頭ではわかる。食べ放題を経れば、腹八分の美徳がより上品であることもわかる。

しかし社会が移行し、よりEASYで楽チンな選択肢がある世界で、そのよさを示すことは、そもそも選択肢がない時代とは状況が違う。楽チンを選ぶ人間の愚かさを言う時に、それを実感し選び取るには、誰にでも手が届く楽チンの選択肢を経験したあとでないと、本当にこころからの選択になりえないのではないか。

眼をつぶり、EASYな選択肢を選ぶな、と聞こえる。
EASYはEASY故に、一度は(或る一定期間は)、そのEASYが提供されている間は、試すしかないのではないか。そしてその後に、誰に強制されるのではなく自ら選択する。

そのとき、EASYを経たことへの後ろめたさは、あるのだろうが、考えてみると後ろめたく思う必要はない。むしろEASYからの脱却は、選択枝が無く、美しいありようを行っている状態より、より困難を経ており、誇るべきものなのではないか。

EASYからの脱却を志向するとき、純粋な欲望からではない、それこそ「こころ」の提示は、重要だ。

そのような流れで、こころ、こころの時代、というものを考えるべきであろう、と思っている。

勿論、そこで提示される価値観に、素直に共感し、すぐに入っていけるのであれば、言うことはない。そういう近道の提示、にもなるであろう。

”責任を転嫁することなく、まずはおのれの心の内をふり返ってみることではないだろうか”(山折哲雄