他者からどのように思われようとも、
無邪気な子供のように純粋に楽しめるなら、なんであれそれをするがいい。
起きることが起きるなら、あるがまま起こさせなさい。
高貴な存在になろうとせず、純粋な存在で在りなさい。
そこに善悪はない。
P.459 ヘルメス・J・シャンブ ”それ”は在る ある御方と探究者の対話
高貴であろうとする誘惑は強いものだろう。
高貴であること、がわかるものは誰か。自らが高貴であると評価する”自分”。
あるいは、他人。
評価する”自分”は自分のようであっても他人である。
他人の目を気にする面があるし、気にせず自分の想いである、という意思やあったとしても、そこにはかすかな他者の目が隠れている。
純粋で、あるべきだろう。
やりたいことをやる。
だが、そのことが”本当に自分がやりたいことか”と自分自身に尋ねること。
その結果であれば、なすべし、ただなすべし。
他人がいるか、そも”他人”とは何か、他人は自分ではないのか。
そもそも他人も自分もあるのですか。
面倒になり、やりたいことを”こころに尋ねて”おこなうべし。
純粋に。