夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

サムマネーがないと無理。

非正規労働者が、自己肯定感が低く、かつ新自由主義の成功者を理想とすること、そして自身の福祉を求めず、為政者を糾弾しないこと。そして一番目の敵にするのは、自らが「そうなっていたかもしれない」ちょっと上(と自身が感じる)人々である、ということが言われている(雨宮処凛さんなど)。

これはどうしてなのだろうか。

自分ならどうか、ということで考えてみたい。

 

自分自身は、こうしてなんとか日々暮らしてはいるものの、就職のときは不安しかなかった。

小学校から高校まで、「自分はこれから放り込まれる大人社会、という場所では、たぶんうまくやれないだろう」、そんな予感に苛まれていた。

いわゆる「運動が出来」「人とのコミュニケーションがフランクで強気」であり、「男女交際なども得意分野」。

こういう「社会でうまくやれそうな人々」を見るたびに、なんて自分の基本スペックはそこからかけ離れているのだろう、と思っていた。

これはもう、日々感じていた。

 

この感触は、自身が生き延びるために全力で自らの感覚触覚で本当のところ、と思われる、自らの「生き残り戦略」のなかで憂慮すべき「遺憾ながら不都合であるところの真実」である、と思えたものだ。

そもそも小学校卒業の時にそれを感じていた。

これはやばい、と。

 

生き延びるためには、自らのこころの欲求に抗わねばならないようだ。

 

そう思っていた。嫌なこともしなければならない、と。

 

・まずは嫌いな勉強をしなければならない。金を儲けたい、ではない。必要最小限の食い扶持をなんとか稼ぐために。

いやいや勉強した。が不安から自分なりに精いっぱいやった。もちろん嫌々の勉強だ。嫌いな数学をやるのは拷問のようだった。だが一方で、こんなに嫌いなことも頑張っちゃっている、ということは逆に安心にもつながった可能性がある。

そして勉強しながら、「本当は学問とは、食い扶持を稼ぐため、というような目的ではなく、純粋に学ぶべきもののはずなのになあ・・」とも思っていた。だがその声を聴きすぎると、嫌なことは学べない。あるいは得意な学問でとことんいけそう(大学教授レベル)であればそれはそれでいい。だがとてもそんな「ギフテッド」を持ち合わせてはいないようだった。

 

・人とコミュニケートしなければならない。特に「苦手」と思う人々と。

やけくそでコミュニケートした。その時「逃げないでぶつかろう」と思っていた。そのことはすこしだけ、誇らしい。そして全身でぶつかると、道は開ける、とも学んだ。

 

・運動が苦手ではあるが、文系的ではない、身体的な自らの強みを伸ばさなければならない。

身体を鍛えた。それほど強くなったわけではないが、弱くはなかった。上段の「苦手な人々とのコミュニケート」でも、一応自身にとってはできる限り鍛えている、という思いは後押ししてくれた。

運動神経はゼロだが、パワーリストやパワーアンクルを日々付けている気持ち悪いやつ、というポジションだ。不気味さはたぶん、舐められ、に対抗できるかもしれない。できないかもしれないが、そこに賭けるしかない。

 

・なんとか、どこかに、潜り込まねばならない(就職)。

やばかった。。なんとかかんとか滑り込んだ。

 

就職後もいろいろな葛藤があった。母親はあるとき「アンタ、無理してるから」と言ってくれた。その一言で、わかってくれている、と思った。

 

こんな私は、たぶん非正規労働で苦労している人々と、たぶん心の中はニアリーイコールであるだろう。そのような方々がどう思うかはわからないのだが、自身ではそう思う。

で、自分がその立場になると、やはりそうなる、という感じがする。

 

一発逆転がしたい。と思うはずだ。宝くじを買う金(何とか生活できる金とは別に)があれば、買うだろう。

政治をなんとかしろ、と思うかもしれないが、「誰かと連携して」「政治的な要求を正しいお作法で」やるのは嫌だろう。多分人とのコミュニケーションに疲れているだろうから。

多分、連携や、コミュニケーションの場がないことが原因だ。でもいったい、誰がそんな場をつくるのか??暖かい場所で、そんな場を作ってらっしゃる例はあると思う。そこに、辿り着く必要がある。

そして仮にあったとしても、そんななかに飛び込む元気がもうないかもしれない。時間もない。たぶん電車賃もない。金があれば、もやしと即席めんを買うはずだ。

なので、もし巻き込まれで、なんとなく、NO負荷で、「連携」のようなところにいることができるのなら、政治や、制度がけしからん、という気もちになるのかもしれない。それは「目の前の食事」があることが前提だから。

チャップリンは「愛と勇気とサムマネー」(違ってたらすみません)が生きていく上で必要だといった。最後の「サムマネー」とは、なんとか将来も生きていけそうだ、という予感に繋がるだけの「実入り」のことだろう。

ここがむつかしいのだ。

これさえあれば、まずは腹を満たし、そのあとで初めて「為政者」への「異議申し立て」が可能なのではないか。他人とは自身の食い扶持を奪うかもしれない敵である、と本能的に感じなくともよいのだから。

 

そしてそれがなければ、無理である。

そんな風に、思っている。

 

そして、最後にのこった矜持で、張っている虚勢こそが、「少なくとも人に頼らず(人の所為にせず)生き延びている」という感覚だろう。

それはいままでの人生を、自分なりに肯定することである。

たとえ他人から見て、失敗続きに見えようとも。

(最後にのこった矜持の所為、というのが、現状の私の感覚です)