読売新聞 思潮6月欄を読む。
行政やメディアや知識人が「個人が自分自身の運命の支配者になること」を奨励したことが、自殺者を増やした理由。
これを逆にすると減る。
見田宗介氏、三浦展氏、(中央公論、「『進歩』が終った世界を若者はどう生きるか」)
あの世を信じる20代の割合、15%(2003年)→23%(2008年)
奇跡を信じる20代の割合、30%(2003年)→36%(2008年)
→アンケートで聞かれたら、本当に自分は信じているな、という層と、ま、そう信じたほうが自分にとってよさそうだな、ということでYESと言う層があるような気がする。
そして後者の割合が増えているような。それは、内田氏のいう自己責任の閉塞感、義務感のプレッシャーを和らげる機能をそうしたものを信じる(この”信じる”、の意味を池田晶子さんは拘っていたような気がする。果たして信ずる、とはなにか)ということが持っていることを人間は本能的に知っているからではないか。
例えば神話のイメージが、生とは、死とは、という終わりのない問いへの答えを内包するように、人は自分の魂を扱う術を自分の中に持っていて、それがあの世や奇跡、という神話へと向かわせるのではないか。
迷信やいいつたえ、といった呪術的なものは、今の生活感からずれているものは衰退しつつ、自らにあった形での呪術を自ら選んでいる。選ぶ必要がある、と本能的に感じて。これが先の%に出ているような気がする。
呪術からは、逃れられていなかった、あるいは再び身近に置くことにした。
ファンタジー文学は、僕が子供のころは、探すのが難しかった。最近はブームと言われるが、殆どが当たり前のようにファンタジーの要素を含む。昔はこうした要素が持つ逃避性を看破し"女々しい”とする風潮があった気がする。
だから僕はそのような物語を探して読んだのだが。
今は当たり前のようにそれがある。みんながすべからくそれを求めており、それを希求するのが当たり前、という了解が出来ているのだろう。
このあたりが、先の2つの傾向とも関連している気がするのだ。
では、どうすればいいのか。
池田さんなら、”悩むな!考えろ!”という所だろうが、新聞では
ラテンアメリカの人生を楽しむ、恋愛のみならず、同性の友人、仕事関係者を含めた人間関係それ自体を、という文化を一つのモデルとして提示する。
確かにラテンアメリカのパワーは効果がありそうだ。しかしそこには呪術、神話というスパイスが、漏れなく満遍なく含まれている気がする。
人間に神話を!、というのが僕としての一案、ということになるのだろうか。