夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

池田晶子の絶縁状。

池田晶子さんからの絶縁状を受け取った。

池田さんは自著への読者からの手紙にまめに返信されたと聞く。
残念ながら僕は池田さんの生前にご自身へ手紙を書くことはなく、
どんなにしょうもない感想でも、自身の心からの感動と感謝(それがあることに関してだけは確信がある)、それをお伝えする機会があったなら、どれほど嬉しかったであろうか、その忸怩たる思いが、この池田さんの嫌いなネットという環境を敢えて用いて、僕をして池田さんの著書や生き方、考え方への感想を勝手に書かせている理由の一つとなっている。

池田さんから僕に届いた絶縁状は、むろん僕宛ではなくて、

そしてその本紙自体は、池田さんの棺中で灰になったという、

がん細胞ザルコーマ・グロブリとそのがん意識、への絶縁状である。

それは例えばハガキに書かれれば池田晶子というひとつの精神のありかたから、あるグロテスクなる意識への、訣別と縁切りのみごとなる典型例とも見える。いわば”縁切りの見本”。

眼に余るものへの著者一流の一喝、である。

がん細胞との戦いは、15年間、再発は8回にも及ぶという。
であれば、池田さんが31−2歳のころであろうか。朝まで生テレビに出演された前後、ということになるだろうか。

昨日、中村元氏の項で、池田さんが生死から解脱されていると書いた。そうでは、あるだろうが、安易に書きすぎた気もしている。このがん意識グロブリとの相克、があり、そして深まる考えがあった。

そのようにも感じる。例えば”人生は愉快だ”に収められた、考える精神たちの系譜、世に顕かたる精神を、自らの精神に照らして、”反射させて”切り取った断面は、各人の巨大な精神性に萎縮して近づかなかった僕をして、その足がかりを与えてくれる、そのような仕事として、この世に残されたのである。

プラトンパイドロスに書いた言葉、
「人がふさわしい魂を相手に得て、その中に言葉を知とともに蒔いて植えつけるとき、その言葉の持つ種子からは、また新たな言葉が別の新たな心内に生まれて、つねにそのいのちを不死に保つことができるのだ」 

藤沢令夫氏の著書、”プラトンの哲学”35ページ3章の扉の言葉として引用されたこの言葉、この訣別状と一緒に送られてきた編者の
特定非営利活動法人 わたくし、つまりNobody からのメッセージにも引用されている。

ふさわしい魂であるかはともかく、その魂の系図からの精神に、接することは素晴らしい愉しみであるに違いない。

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか