夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

獄中のソクラテスと市井のソクラテスの会話:死と生きる(池田晶子、睦田真志)

下記のレビューをAMAZONで行った。日記に再録します。

池田晶子さんの著書を読んで、なぜソクラテスが従容として刑死を受け入れたか、の理由に付き、考えた。1.自らの善を確信していたこと2.裁判とはこの世(=自分以外の)のルールであり、究極は自らの魂に何ら抵触しうるものではないこと。3.生と死は結局は地続きであり、差異は認められないこと。
自ら考えた理由はこの3つ。そして睦田氏の場合は、1.自ら絶対的な善を知る事を通して、自らの悪を深く納得・理解し、2.”公判の場は、決められたルールによってしか善悪を決められない、競技コートのようなもの(本書P.66)”という理解をし、3.生と死がメビウスの帯が如き同じものであると気づいた。

以上の理由により、刑死を甘んじて受けたソクラテスと同じ境地を見出した、ということであろう。

そして、睦田氏にとってのソクラテスは、その対話編を新たにソクラテスと同じ論理、魂の口伝でもって語り起こした、池田晶子氏であったのである。

従って、本編はいわば獄中のソクラテスと市井のソクラテスが、自らの魂を通して語り合う、いわば”時間差モノローグ”のようなものなのである。

池田さんは、これは本当に自身のモノローグ集とでも言うべき”REMARK"01.Nov.1997で述べる。

”悪は悪であることによって善を欲するが、善は善であることによって悪を欲さない”

またこうも述べる。

”なぜ、気づく人と、気づかない人がいるのか。
 気づきの可能は何に由来するのか。

 魂の初期条件

 のようなもの
 と言いたくなる。”

初期条件で悪をなした睦田氏が、善”の考え方を池田氏の著書に接しインストールされた。

インストールされた後は、”実際の悪をなした”ソクラテスと、なしていないソクラテスの会話という様相を呈す。いわば別次元のソクラテス同士の会話というか、プリミティブなソクラテスとより理解したソクラテスとでもいおうか。

このあたりのやり取りは、達人(師匠と高弟)同士の会話のような、或いは自らの心の中のモノローグのような、不思議な味わいを醸し出すようになる。

タイトルの”死と生きる”通りの1冊。折に触れこの会話に接したくなる、そしてその度に魂に触れる何かを感じることがある、稀有の書であると言えるだろう。

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話