いい詩とは、詩人が自分の思いをどこまでも深く掘りさげて普遍(ほんとうのこと)にまで届いた詩のこと。
童話社 ポケット詩集 宣伝用文より。
詩、というものに対して誤解していたな、と最近思うようになった。
宮沢賢治の”アメニモマケズ”を初めて教科書で読んだときの感想は、”押し付けがましいな”だった。人に”こうせよ”と言われるのがなにより嫌いで、そこからできるだけ自由でいるには、表面的にできるだけ優等生、すくなくとも目立たないようにすることである、という戦略を取っていた子供時代、面従背反の”背反”の部分に切り込んでくるものに対して過敏であった。
”おいおい、ここまで言われていることに従っているんだから、心は自由にさせろよ”ということであった。その自由に拘るあまり、そこに少しでも関わってくることはかたくなに拒否していたな、と。
だから”賢治はすばらしい”などといわれると、”ふーん、そういう表面的な素晴らしさにあこがれるわけね、そしてそんな純粋な自分をアピールしたいわけね”という風に考え、そういうコメントを出す人のことを、少し軽蔑していた。
のだが、実はこの詩は、賢治の死後、誰にも見せるつもりがなかった作業着の中から見つかったものである、ということを聞いて、思った。
そうか、賢治は自分だけのためにこの詩を書いて、自分だけに言い聞かせていたのか。
誰にも見せる気はなかったんだな。見せたら”ふーん、偽善者”的な反応があることや、そうやって律している自分を誇る態度なんだな、と思われることが分かっていたんだな、ということ、
そして、であれば自分も素直にこの詩に向き合わねばなるまいな、ということになってしまった。
素直に向き合ったときに見えてくる、賢治の素の魂の姿のようなもの。
小林秀雄がランボーに魅せられたのは、その魂の形であろうし、詩を愛するとは、即ちその作者である詩人を、その魂を、愛することであるのだろう。
引鶴の空蒼ければ湧く涙 大峯顕
池田晶子さんのことを詩人である、と評した、大峯氏が、池田さんが亡くなったあとの池田さんとの対談集”君自身に還れ”の版のオビに記されたものである。
僕は残念ながら、発行後すぐの版を購入したので、このオビのことは本屋で見て知った。
自分のオビの色と違う本書を手にとって、この句を読んだ。
大峯さんが、池田さんの死を悼む姿が伝わる。死んだのはだれなのか、という名文句を辞世の句とした池田さんに対し、その思いを十二分にわかりつつ、そして悼む姿。
これこそが詩であり、詩人である、ということであろう。
短い文体で。
ちょっと日常とは違う語法で。
倒置法、いいねえ。
擬音、いいね。おのまとぺ?
子供らしい思いを素直にぶつけなさい。
それは勿論大事かもしれないが、詩に対して、そんな思いでいいのか?本当の詩を、できれば邪道なのかもしれないが、そのときの詩人の思いを感じながら味わう機会。国語の試験じゃなく。
そんな教育がいいんちゃうの?
ロマンチスト、というのはいいと思う。ロマンチストたりたい、と思う。小林秀雄は大ロマンチストだろう。ただ、趣味が高尚(いい意味で)すぎて、偽者が許せない。
本当のロマンチストなら、みんなそうだろう。
”いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのだろうか。
その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないのか。
時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。
(ここで解かれるべきものは自然科学の問題ではない。)”
”論理哲学論考” ヴィトゲンシュタイン
”人生は愉快だ” P137 より。
こんな、謎の神秘な香りに魅せられた人たちが哲学者であるのであれば、その人たちはすべからく詩人と称してもいいのだろう。
自分さがし、という問いの立て方からしてずれている、と称した”ソフィーの世界”と、奇しくも類似の哲学案内の表面を見せつつ、実は謎を見た人々の世界霊魂の共通認識で各人の論(それは真実はひとつのはずだ)を見ているのにすぎない、それは似て完全に非なるもの、詩人による、謎の香りへの誘いなのである。
といったようなことを、今朝本書を読みながら考えた。