夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

美。

美とはなんであるか。

その前に立ち止まり、それと我、2つしかない世界へと”否応なく”ひきずりこまれ、それと戦い、抗おうとし、征服されたくなり、征服したくなり、しかもそのことに深く満足感を感じること。何時間でも時間をわすれて。

洲之内徹が若い画家の作品を見る時は、1枚1枚に時間をかけてじっくり見た、という。美を求める心を知り、それがどんな無名画家からも生まれ得ることを知っている、ひとつの眼(いや2つの眼からつながった魂というべきか)。

そうして見てもらえる、ということは、自らの美を求める純粋無垢な時間と思いを、まず無条件に認めてもらえている。当たり前のこととして。それがいかに稀有のことであるか。

それを知っているから、画家は洲之内を信じたのである。

美の前には、いかなる制限もない。なにをしてもいい。なにを感じてもいい。貪欲になる。非道にもなる。自分の発見した美が、他の人間にとっての美であるのかどうかも根本的にはどうでもいい。しかし見つけにくい美を提示すると、それが見つかったことを含めて共感する魂たちの存在はしってはいるのだが、しかし。

義務ではない。面倒ならやらずともよい。体質的にそれほど渇仰しない魂もあるような気がする。美よりも真実、本質といった似て非なるイデアにより惹かれる魂もあるだろう。それはそれでいい。文化部と運動部みたいなものだ。どちらもイデアを求める戦友。お互いは自然な尊敬を持つ関係である。だが僕は文化部だよ、と。両方兼部してもいいねえ。

そんな姿を実際にピュアに、掛け値なく体現した存在は多くはない。どうしても現実にまみれる。うそも入る。画家は知る。そんな世間的に稀有な存在が、画廊の主であることを。そしてその人に見てもらいたい、美にのめりこむ、つんのめるように、堕ちてゆく姿を尊敬する。

それが洲之内徹、という一個の魂であったのだと思う。

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”彼もまた神の愛でし子か 洲之内徹の生涯”大原富枝 ウェッジ文庫

を読んだ。


”絵”に対する彼のぶれない態度は、”きまぐれ美術館シリーズ”から感じることができる。それを読んで、彼という魂を信じることができる。

彼にとっては又”女性の美”というものも同じであったのだろう。
いや、ここで”女性の”という形容は不要だ。どちらも美。

美に対する態度がどうして変わるものか。

絵に出合って画廊を経営するまえから、彼はその態度を一貫してもとめる人であったのであろう。

その自分ではコントロール不能な巨大な癖。

中国時代のこと。これを取り出して見せることで小説を書いた。
あまりに個人的であるとして賞から外れた。

ただ、そのときはまだ、純粋な美への追求だけではなく、魂のくすみを取り出し浄化する過程だったのかもしれない。

大原は四国時代からの彼を知る、一番古い戦友の一人であるのだろう。”クラブ”としては”文芸”というところだ。
彼は”文芸部”で七転八倒し、世間的には評価に必ずしも恵まれず、結果的に”美術部”に行ってしまう。そこでも結局書いているのだが。

そこのところ。そんな彼を”小説的”にアプローチするときに、少しく、暴露的な面がでる、のが小説的ということであるように感じる。”意地悪”であるのだ。”批判的”でもあるのだ。周りが清濁併せ呑んでいる部分を、周りでない人たちに伝える、その作用が小説の真髄でもあり、厳しいところでもあるのだろう。

そこのところを、ぎりぎりのところで救っているのが、作者の洲之内に対する愛情であろう。女性に対する美への賛美のしかたに、同じ女性としてどうしても、という部分。許せない、なのか、だらしない、なのか、なぜに同じ女なのに、という自覚したくない思いがはたまたあるのか。

そこは、戦友として、分かってきたのだろう。だが、洲之内が死んで、自らも人生の終盤にある。数ヶ月しか誕生日が違わない。そこが契機となり、今書いておかねば、の思い。これはそうでなければ、彼女でなければ、このタイミングでなければ、書かれぬまま終わった本なのだろう。

洲之内の関係者に、だから作者は会いに行く。許してもらえないだろう。でも書くことを伝える。しかし、作者の会った女性達はそれを分かっていて、許している。あるいは認めている。すきなように書いてください。その言葉は、その女性達の理解力と靭さを示す。

あとがきで、関川夏央氏が、”私は芸術至上主義、文芸至上主義に味方しない”と書いたのは、本の巻末に、本の内容を基本的にほめるべき解説文の中での、精一杯の作者への抵抗、苦言であるのだろう。ささやかだが、分かりやすい。ここが、作者が”まわりは洲之内の”かみそり”部分を知ってもそれを含め愛している”と批判しつつうらやましがっている、その態度の代表答弁みたいなものだろう。

美に殉じる洲之内の仕事は、オレは信じるよ。

それが絵だろうが、女性だろうが、美は美だよね。

という。彼の周りの男も女も。

ただ、美しいものを、容姿として持つ人は、それに無自覚であり、美を作り出す人とは、基本的に違う”部”の所属だ。

だから相容れず、もめたのだろう。彼が苦しむ床で。人間はお互いが違う部であることは、本当にはっきりとわかる。

坂本竜馬おりょうのように。美を体現し、そこも竜馬に愛されたおりょうが、竜馬の死後、周りにうまく溶け込めなかったように。

この部分はせつないところだ。主人公の死去でくずれるバランス。

”基本は、彼のことが好きで周りにいるんだけどねえ。ちょっと好きなところが微妙にずれているのよ”


彼もまた神の愛でし子か―洲之内徹の生涯 (ウェッジ文庫)

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洲之内徹 絵のある一生 (とんぼの本)

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気まぐれ美術館 (新潮文庫)

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