夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

4月18日 宗教の一番の売りは、生物としての人間の根源的な死の恐怖ではないだろうか。

宗教が常に死後の世界が素晴らしいということを説いているのも、それは逆説的には死ぬのが怖いので、死を恐れないようにするための一つの方策として色々な理論を組み立てているのです。

 

 

勝間和代さんのブログからの学びである。

f:id:mamezouya:20240418043952j:image
f:id:mamezouya:20240418043949j:image

人が生き物であり、自らが死ぬことを心の中ではとことんわかってはいるが、そのことを直視したくないこともその反作用でとことんわかっている。

 

勝間さんの教えで気づいたのは、職業としての「宗教」、つまりその宗派に関わる人間が、その関わりから「生きる為の費用を得る」ためには、各人が持つ死への恐怖を際立たせ、訴えかけることで、それに対する「手段」を宗教的に「信じさせる」ことで対価を得ることが必要だろう、ということだ。

 

宗教組織に、組織人として「就職」した人たちは、それを奇跡の風味でまぶして「信じさせる」ことに特化すべきなのだ、我が生の「糧」を稼ぐためには、ということをとことん学ぶことだろう(疑問に思う人も多いと思うのだが)→そこからいろいろ深みのある考えが生まれたことも否定できないが。

 

だが、そういう仕組みを、根源から揺るがすものこそが現代で「異端」、と呼ばれている考え方である。

 

異端(と既成宗教から烙印を押された立場や考え方)は、この世で生きること(=死ぬことの恐怖を持ち続けること)を、今生が悪である、という設定によるひっくり返しにて、恐怖より期待に転換してしまう仕組みを持ったもの、ということが出来るかもしれない。

 

グノーシス派や、カタリ派は、この世を作った「モノ」が、意識的にしろ、無意識にしろ(グノーシスではアブラクサス?は確か自身が悪であるとは知らなかったはず)基本悪いもので、この世から「本来の場所」である「死後の世界」に戻ることこそ素晴らしい、と説くものだ、というのが今の私の認識だ。

 

単に信じる人はいいが、キチンとその宗派に入り込んだいわゆる「聖職者」階級?レベル?の構成員は、子孫を残すことがなかったという。

 

そういう組織が、「我こそは真のキリスト者である」と信じきっていると、組織を運営する中で自らの糧を得ることを(無意識、あるいはそう考えたくないと思っている場合もあろうが)結果的に行う組織が、「これは分が悪いぞ」と認識するのは当たり前だろう。

 

で、火あぶり。

 

子供を残さないという教義のお陰で、性的に放縦であり、乱れている、という虐殺の理由付けは、なんというか後付けの言い訳のように感じてしまう。

 

まあ、その時の空気や気持ちをわかっていない身での勝手な考えではあるが、今はそんな風に考えている。

 

(取り込み無理なので、虐殺した、という気がします。。)

4月17日 花粉症ひろい。小澤征爾さんと村上春樹さんの会談本読了、合わせて図書館で朝日新聞2月11日の村上さんの小澤さんとの思いでを書かれた記事をCOPYしたりした。

今朝の体重64.7kg。体脂肪は12%。体重は先週の67キロ近くから落ちてきた。まあ別に減らそうと思っていたわけではないので、普段の食生活だとじわり痩せてゆく、ということなのだろうか。

f:id:mamezouya:20240417061103j:image
f:id:mamezouya:20240417061059j:image
f:id:mamezouya:20240417061106j:image

昨日は歩いて京橋の展示を拝見し、その足で皇居まわりの松林で小澤征爾さんと村上春樹さんの2010年ころの対談本を1時間半ばかり読んだ。13646歩あるけたのが、良かったかもしれない。その結果、今日の花粉症はひどくなったが。

 

小澤さんは2月6日に88歳で亡くなり、2月11日に朝日新聞に村上さんが小澤さんとの思い出をかいた文章を寄稿されていたことは知っていた。今はここ東京では新聞を取っていないので、朝日新聞記事もすぐには読めなかったが、図書館にこの本があることを知って借りたのだ。2週間の貸出期間であるが、当然次の予約者がいらっしゃったので、2週間以内に読まねばならなかったからだ。

 

通勤に電車を使っていたころや、昼にエルゴメーター(自転車)を漕いでいたことは、毎日すこしずつながら本を読むことができていた。本は読みだすことが肝心で、すこし読んで面白かったら時間を見つけて続きを読もう、という気になってくる。

 

だがいまは歩き通勤で、昼も皇居東御苑まで歩くことにしているので、自動的?に本に接するのが結構難しい。勢い折角図書館で借りても、読まずに返す(1回延長できるので3週間はだいたい借りれるが)ということも多い。

だが期限に遅れなければ、予約が無いとその場で再び借りることができるので、読み通せない哲学系の本などはそういう方式でやってはいる(でも結局読めなかったりしますが)。

 

ではそこまで延長しているのなら買えばいいやん、となって買うのだが、そうなるともう読まなくなる。

買って安心、いつでも読める、となるのである(だいたい)。

 

追い込む、場所を替えれば読める。そういう意味ではマクドへ行ったり、電車移動や飛行機移動の時は結構読める。本が読めそう、と思っても、東京名古屋1.4時間位だと、インスタやってると一瞬で時間移動(時間が溶けるともいう)という事も多い。できれば東京―大阪位がいい。

 

村上春樹さんの文章は、ご自身が小澤さんとの会談でおっしゃっているとおり、リズムがいい。人にもよるだろうが、私にとってはどんどん読み進むことができる文章だ。たぶん結構な皆さんが同じように感じてらっしゃるのではないかと思われ、それが村上さん人気の一因だろう(もちろんするする読まされた内容が面白い、ということが一番だが)。

 

村上さんは、ご自身が翻訳もされるので、英語に訳された自作には目を通されていると思う。多分、外国語(英語)になっても、日本語で得られるリズムと同じように、無意識にリズムを気にされていると思う。

 

2月11日の読売新聞から引く(本返却ついでに、過去新聞の閲覧を申し込んでその部分をCOPYしました)。

 

作家が文体を真摯に追及すればするほど、文体自身が消えていって見えなくなり、あとには物語だけが残るーそういうことが、小説の世界にはある。征爾さんの晩年の演奏は、あるいはそういう熟練の境地に達していたのではないだろうか。

 

朝日新聞2月11日 村上春樹寄稿文より

 

文章と音楽、どちらも自身にとって一番すばらしいと思われるものを、全身全霊で追求し作り上げてゆく、という行為の結果生まれるものだ。そういうものであれば、それは人の琴線に到達でき、触れることができるのである。

 

毎朝4時に起きて数時間執筆される村上さん、同じく早朝に起きて譜面を読み込む小澤さん。こういう二人が出会って、話が弾んだ、ということは稀有のことだろうし、普段の生活でそういうひとに会えないであろう二人にとって、会話がとにかく楽しくなったことはある意味当たり前のことだったのかもしれない。

 

年齢差が15歳程度あったようだが、それは多分本質的には関係がないのだ。魂同士にとってみれば。

 

(うらやましい、という感じもしますね)

 

 

 

 

 

日記 4月16日 完璧な一人暮らしを目指して削減しすぎて良いのだろうか。

完璧とは、付け足すものがなくなることではなく、削るものがなくなることであると言う言葉を聞いた。

 

日々の生活でも、一人暮らしをしていると、今まで当たり前だと思っていたものが本当にそうだろうかと思うことが多い。例えば洗濯機で当たり前のように柔軟剤を使っていたが、液体洗剤だけにしてみたが、別に問題がなさそうだ。シャンプーとリンスにしても、リンスインシャンプーを使えば、洗う時間が節約できる。

f:id:mamezouya:20240416093055j:image
f:id:mamezouya:20240416093043j:image
f:id:mamezouya:20240416093046j:image
f:id:mamezouya:20240416093050j:image

塩にしてもそうだ。減塩を気にしているので、できるだけ塩の代わりに七味や胡椒や一味を使っているが、結構、それで何とかなるものである。

 

これは衛生的に微妙かもしれないが、毎日会社に玄米で作ったおにぎりを持っていっているのだが、もともとパサパサした玄米の握りである上に、いちど冷凍してそれを解凍しているので、食べ終わった時のラップは結構サラサラしているのである。

持って帰って乾燥させて再使用しちゃっているのである。

 

どこかのエッセイで、嫁入りした家の風土が違いすぎて、引くと言うコラムを見たのだが、ラップを再使用している小姑を見て、これは無理、となったと言う記事を読んだ気がする。

そのことを思い出し、この玄米おにぎりでのラップ再利用のことをここで書くかどうか少し逡巡したのだが、書いてしまった。気持ち悪くなられた方がいたら、すみません💦

 

思うのだが、一人暮らしだと衛生的にギリギリのところを狙ってしまうきらいがある。さらにこちらは汚らしいおっさんである。自己責任でついつい汚い方向に行ってしまうのである。

 

できるだけ毎日洗濯をし、毎日風呂に入ってはいるものの、存在自体が小汚いのである。

ただ、生活の中でいろいろなものを削っていくと言う試みは、結構いろいろトライをしながら行えるので、なかなか面白みが出てくるのである。

 

お世辞にも綺麗にまとまっていると言えない部屋ではあるものの、例えば電気式の加熱プレートの周りは、料理を作った後は、できるだけ毎日毎回拭くようにしたりしている。そうすると何となく気分が落ち着くのである。

 

そうしたちょっとしたことの積み重ねを習慣化していき、小汚い世界の中で中小汚い位を徐々に目指していきたいなぁと思っているのである。

 

(今は大小汚い、ですねー😭)

日記 4月15日 金を使わなさすぎるのもどうなのだろうか。

今日の体重65.1キロ、体脂肪11.7%。数日前は67キロぐらいあったので、毎日数百グラムずつは体重が減っている。f:id:mamezouya:20240415055721j:image
f:id:mamezouya:20240415055717j:image
f:id:mamezouya:20240415055724j:image

最近オリーブオイルが高くなったので、新しいの買おうと思ったが、アマゾンで買うかまいばすけっとで買うか悩んでいる。アマゾンだと大体1キログラムで1500円位、まいばすけっとでは680グラムで1200円位だった気がする。多分少しアマゾンが少し安いので、Amazonにしようかなと思っている。オリーブオイルはオメガ9で魚の油はオメガ3らしいので亜麻仁油かサバ缶を食べなければと思っている。

最近はタンパク質の中心を卵にしているが、少しはバリエーションで鶏肉とサバ缶も復帰させようかと思っている。なるべく60品目を食べようと言われているらしいので、後はやはりブロッコリー、高濃度チョコレート、ナッツ、キノコ類を少しずつ復帰させようかと計画中だ。

金を使わないようにと思うあまり、ものを買うことに罪悪感あるいは敗北感を感じるようになった。これはある意味いいのだが、何事も行き過ぎは良くないだろう。やりすぎないようにものを買う技も戻していかねばならない。

東京に来て1年間プリペイドカード15,000円を入れて地下鉄に乗りまくっていた。これが結構積もり積もって生活費を圧迫することに気づいた。そこでプリペイドに入れる金は1000円、2000円程度にして、本当にそこに行く必要なのかと言うことを考えながら乗ることにした。そしてできるだけ電車に乗らないでいけるところを中心に行くことにした。ただそうするとだんだん出かけることが億劫になってきた。

コロナで自宅待機の時、電車に乗れないので、とにかく家の周りを歩きまわった。すると、今まで気がつかなかった細かい面白いポイントが徐々に目に入るようになってきた。金を使って移動しなければ面白いものに出会えないと言う思い込みがあったのだろう。住宅街でも植栽に気を使ってる家やデコレーションが面白い家、塗装の色が面白い家などなど色々とあることに気がついた。

ここ東京にしてもわざわざ電車に乗らないでも周りにたくさん面白いものがあるはずだ。。今後は気候も良くなってくるので、花粉症に気をつけつつ、家の周りを色々と探検したいと思っている。

 

(冬の間は寒くてあまり外に出ませんでした。少しずつ歩きまわろうと思っています。)

 

今日は音声入力で日記を書いてみました。なかなか難しいですね。