夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

7月2日 積読の功罪。

今朝の体重64.7kg。体脂肪11.1%。63キロ代でないと10%は切らないようだ。

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最近雨だと外にでるのがおっくうになる。特に一度帰宅してしまうと、もう2度と出たくなくなることに気づいた。昨日は顧客訪問後の直退で、一旦家に帰ってから版画工房へ行こうと思っていたのだが、つい鬼滅の刃・柱稽古篇3話を見てしまい、そのあと引き続きインスタなどを書いていると(Xと違って、インスタは長文投稿できるのが気に入ってます)どんどん時間が遅くなった。

 

冬に寒い雨の中歩いた経験が重低音のように精神に負の面で効いている。風が吹き荒ぶなか、寒くて寒くてたまらなかったことがある。まあ、風邪をひいてもなんなので、無理をしないようにしたいのだが、歩数が少なくなるのは頭が痛い。昨日も結局7000歩弱であった。

 

だが辛い経験も役にたつ。冬場はレスキュー用に携帯性の高いダウンを鞄に入れておくのもいいかもしれない。まあ、歩かないで食べると、体重は0.6kg増えているわけだが、昨日は外出先で久しぶりにランチ(カレー麻婆合いがけ)を大盛りで食べてしまったので、仕方がないだろう。

 

外食でつい大盛りにするのはいい加減考えないといけないかもしれない。。。

 

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さて「積読」の功罪について。

 

基本積読というのは、残念な瞬間的所有欲(時に知識欲)の結果であり、買ったのに読まずに目につくところに積む、という行為はいわばそのときの”うっかりした自分”への懲罰的意味合いさえ帯びている(個人の実感です)。

 

時に崩れる。崩れたものを戻すときにいやます罪悪感。崩れるまでに欲望を氾濫させてしまった過去のダメな自分。。。でも慚愧と共にどこか甘美な自己憐憫も混じっている気がする。

 

まあ、一応買えたしな。。

 

本との出会いは一期一会。。特に古本は。。。。

 

いざとなりゃ終活でメルカリに売ったらええやんか。。。。。

 

本が提示する知識のみならず新しい世界、を感じたんやな。。。

 

で、たまに、ごくたまに、気が向いてぱらぱらめくると、なんとも忘れがたいフレーズ(あくまで”フレーズ”。全文読むわけではない)に遭遇したりすると、

 

ああ、やっぱり無理して買ってよかった。。本には作者の魂が入っているなあ。。。。。

 

などと思い、更に購入するポチリ指がはかどってしまっていることが散見される。特に夜はやばい。

 

 

だが例えば、家で両親が持っている蔵書とか。子供は読まないながら、背表紙を見るともなく眺めて過ごす。

 

先日版画工房の方と話していたら、あなたの好きな本は私の両親の蔵書とかぶっている。

 

といわれて、まあ世代GAPも感じながら、そうか子供とは読まずとも本と所有者の関係性を感じるともなく感じるんやなあ。。と思ったのだ。

 

門前の小僧、習わぬ経を読む、という(不正確な記憶)。

 

近くで営まれる知的活動に、人は知らず注意を惹かれる。

 

まあ、澁澤龍彦はこじらす人々のまさに入門書ではあるのだが、両親の蔵書、といわれればなんと幸せなご両親だろうか、とか思ってしまうではないか。

 

そしてその子供が版友としてここにいる。。

 

電子書籍で同じような情報は得られるが、本の物質としての手触りや、蔵書につい書いてしまった父親・母親の書き込み、買った古本屋の証跡などなど。。残された本を手にする子どもは、”ああ、こんな古い本メルカリで出すだけ手間やなあ。。”とおもいつつも、すこし心を動かすことになるだろう。電子ではちょっとそのあたりがなくなると思う。

 

(本を買ってしまうものとしての単なる言い訳ですよね・・・)