夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

消齢化ということばを知ったが、消齢化とはなんだろうか。なぜ起きるのか。

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消齢化という言葉を知った。

皆さんとうに当たり前としてご存じな言葉なのかもしれないが、お恥ずかしい。。

で、個人的にも”まあそうだなあ”、と思う感じがあるので、消齢化とはなにか、なぜ起きるのか、そもそも起きているのか、といったあたりをぼんやりと考えてみたい。


消齢化、ということばを聞いて思ったのは、”年甲斐もない”、”お荷物”、
老害”といったネガティブなワードである。

寿命が短く、年よりが希少であったころ、イメージとしては”部族の長老”、”魔法使いの(いい)おばば”といった存在が居たころだ。そのころはいわば通常人、モブの人たちが労働で老いさばらえて亡くなっても、比較的その生まれ落ちての地位などから労働も少なく、結果健康を維持できがちで”モブより長生き”することもできた、という側面があったろう。

そういう人の周りには、部族や村の様々な問題が起き、あるいは持ち込まれ、経験値があがり”知恵”がつく、という結果となったであろう。

だいたいどこの部族でもそんな感じで、結果”レアキャラ”である老人は、比較的年寄りであればあるほど暇もあり、いろいろ知ることになった”ということで、年齢による”年の功”も周りから実感されることもあったであろう。

まあ、年をとって、みんながまわりにいると、こそこそしにくいし、結果さまざまな欲も次第に消え(あるいはあたかも消えたようなそぶりをせざるを得ず)、見た目は一応”よき長老”となる結果ともなったのであろう。

そういう多くはないが少なくもない人類の記憶もあり、”年齢が行けば違う考え方のステージに行く”と思われることが多かったのではないだろうか。”結晶智”などということばも浮かぶ。

その結果、老人の知恵はいわば”尊敬されることもあった”のであろう。

役割が人を作るともいう。”長老”といわれれば中身人格がそれほどでもなくても、外見からはまあまあの知者と見える動きもできるようにもなったであろう。

エンタメ面も大きい。基本なんのエンタメもなく、少ない楽しみは村祭りに昔語り。そのあたりの結果中心にいるのも”村長”や”長老”であったろうから、むしろそうした老人たちは”エンタメ独占”人でもあったのかもしれない。

そうした貴重ないわば属人的資質の垣根がWEBで消滅した。過去のエンタメアーカイブは(別にエンタメに限らずだが)、影像画像本が残っていれば、覚えるではなくただ検索することで老若男女がアクセスできるようになった。むしろ老眼のない若者のほうがアクセスしやすかったりもする(情報があれば)。

本はほとんどオワコンだろう。WEBですべてが記憶される、WEB版アカシア年代記(本の中の記憶)があたりまえとなる時代も近い。

そして”長寿化”だ。労働が少なく、長命を保てた数少ない”村の長老”に比べ、今は”モブでも誰でもみんな長生き”である。

であれば、もうモブに基本、”尊敬できる経験””陶冶された人格”を求めることはできず、若者モブ界での状況と同じく”たまに尊敬できる老人もいることはいる”という状況になったのである。

あとは「”若みえ”願望IN内面も」であろう。若い人が気を使って、「ああ、あのマンガも読んでらっしゃるのですかー」なんて言ってくれたら鼻高々だ(←私のことだ)。

まあ、いずれにせよ、”残念な内面”である。

まあ、“有齢”の時代でも、”今の若者は””ワシの時代は”という残念な面倒な気持ちも漏れなくあったのだが、今の”消齢世代”もこういう面倒なことだけは相変わらず盛大にいうのである。

もう、面倒でしかない。

”消齢”ということばには、若者から”基本めんどくさい”と思われる年寄りばかりになった、という意味が籠っていよう。

あとは”年金”ですな。”あいつらのせいでワシら現役世代が死にそうや”となぜか関西弁でいったほうがピッタリくるような、ルサンチマン臭も、もれなく漂ってくる。

(ほんと若い皆さんにはご迷惑おかけします。。。まあ、今の年寄りはだいぶマンガなんかも読みますから(戦中世代でものらくろ)、商売的には人口減ってはいますがすこしはいい面もありますね=デジタルマンガ版権会社にとっては。。。)