夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

書くことと、描くこと。おもいつくこと。

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いかに修練をつんでも、いざ文章を書くときは私たちはつねに初心者として出発点に立ちもどることになる。
書けるか?その不安は、一字一字書きすすめるという行為によって消してゆくしかないだろう。
このようにして、私はこれまでやってきた。
こないだ 山田稔 P.138
なんとかできるだけ毎日ささいなことでもここに日記を書こうと思っている。常にネタ切れ気味だし、土日には基本書けなくなった(PCが古すぎる)ので、邪道かもしれないが平日にできるだけ書き溜めよう、と思ってはいる。
だがなかなかたまらないし、夏休みの間でだいぶストックが枯渇してきている。

だがまあ、こうしてとりあえずはNOTEを開き、おもいつかなければとりあえず体重と体脂肪を書く。といってもキーボードだが。

山田稔氏の場合は、原稿用紙であろう。外山滋比古さんの新書を昨日読んだが、200字つめの原稿用紙を自分用に注文して使用していた、ということだ(氏は2020年に96歳で亡くなっている)。通常400字なので、いろいろ訂正推敲がしやすいので使用していた、ということだ。

私は原稿用紙というものは、ほとんど使用したことはない。小学校の時くらいだろうか。あとはノートにメモする位で、日々のメモにはバインダー式のルーズリーフを使っている。

山田氏も書かれているが、書いてないと「書くネタがない」という感じがする。なんとなく朝風呂に入り(朝風呂派です)、そこでなにか浮かぶこともなくはない。3上というと、厠、枕、馬の上ということになっているが、個人的には風呂の中というのもなかなかに思いつくことがあるのだ。

書く、もあるが、描く、もある。思い起こせばもうスタートして8年位になるが、仕事の傍ら途切れ途切れではあるが銅版画をやっている。

その下絵、というものが必要で、これも「思いつくだろうか」という気がするのは文章とおんなじだ。

夜には、全く思い浮かばない。まさに電池切れの状態だ。なので、朝、最近は白い画用紙を尾籠ながらトイレに置いておいて、描きかけのものも積んで、運搬用の画材いれを机代わりにして、シャーペンとスティック型消しゴムを持って、白い画用紙を目の前に置くようにしている。

すると、なにがしかのものが浮かぶこともある。

描くのも、書くのも、なにかきっかけが必要だ。本を読んだり、資料や画集を見たり、いまならインスタやツイッター(Xか(笑))を見たりしているときに、”ないかネタはないか”と頭のどこかで思っていると、ひっかかってくることがある。

インスタで公開していないプライベートアカウントを作って、そこに気になった画像をためている。タグも付くので、結構便利である。
前はピンタレストを同じように利用していたのだが、使いやすさから今はすっかりインスタになった。

こうした画像蓄積は、昔はとにかく本であった。本はかさばるので、購入し、コピーして、スクラップブックを作ったりしていた(いまもある)。

一覧性という意味では、スクラップブックも悪くない。ぱらぱらめくっていると、結構心がさまよいだしていいのだ。それから、ああ、このことを深堀してみよう、となる。そしてその時にWEBの画像検索などで探してゆくのだ。

個人的感触だが、やはり画像とWEBは相性がいい。勿論同じことは文字でもできるのだが、画像の方が入手性がいい感じである。

やはり人間、アウトプットを前提としたインプットと、アウトプットを明確に前提としない(結果的にはそうなることもあるが)インプットとでは集中の差がある気がする。

そしてなにかを探す、という行為は結構ワクワクするもののようである。

(ここ数年はギリシャ神話にすこしはまってますかね(笑))

 


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