所属する銅版画工房の先生よりいただいた言葉である。
1年半ごとに工房での展示がある。ご縁があり大変著名な銀座の画廊で行うことができており、多数の皆様にご来廊頂いており、私は単なるいち参加者であるもののすばらしいご縁である、と感謝している。
昨年10月に東京に来てから8か月、その間に3つのグループ展および2つの公募展に作品を出すこととなった。
さすが東京、ということで、作品の完成度にはいろいろ不満があったが、こうした機会を持つことで様々な学びがあると思っている。
こうした展示があると、宿題と同じでなんとか期限に間に合わせよう、と最後のブーストがかかる。これは嫌いではない。同じグループ展に出した仲間の皆さんの状況を聞くと似たり寄ったりというか、夜中中呻吟した、とか、そのあたりも伴走感があって(その時はわからないが)とてもいいのである。
だが宿題とちがうのは、宿題はそのことをすごくやりたい、と思っているわけではないのだが、こちらは基本、やりたくてやっていることである点である。嫌なら、やらなくていいのである。
一人で制作するのもいいが、先達というか師匠というか、そういう方との出会いが出来るのも、そのことをやろう、という意欲があってのことだ。先生方は、その点をわかって下さり、鼓舞して下さる。だが、強制ではないのである。
この年になって、初めて師、という存在に出会った気がする。ありがたくて仕方がない。
そして、グループ展や公募がひと段落して、次に9月期限の公募がある。ここに出したい、というのが次のテーマである。
だがなかなかエンジンがかからない。決して四六時中制作しているわけではないのだが、まあ、深層意識では常に「制作しよう」と思ってはいるようなのだ。
その時に変に「やらねばならぬ」という義務感では、こうした制作はうまくいかない気がしている。潮がじわりと満ちてくる感じ、満潮ではなく、じわりと日々の潮を待つような。
その潮をすこしでも受け止めるために、版を準備して、鞄にいれたりしている状況である。
冒頭のアランの言葉は、師がくださった言葉である。意欲を持ち、創造につなげたときの幸福、これを一度味わうと、やみつきに、なるのである。
(なかなか取り掛かれないですけれども。。。)