花見に行った。
この名古屋では多分この土日が満開。出来れば京都は哲学の道などへでも行きたい、と思っては居たが、新聞で見つけた往復4000円のバスツアーは4月6日だったか、たぶん散り始めではないか。
それよりなにより、申し込んでもいない。
しかし4000円で京都往復できるとは安いものだ。2001年哲学の旅、のなかで、池田晶子さんは藤澤令夫氏と哲学の道を歩いている。この項、年代を超えた戦友のような、師弟のような、そんな会話がうらやましくもある、僕の好きな対談だ。
昨日は次男の塾説明会への同行があったが、ふと思いついて少し早く出て、名古屋では櫻の名所としてたぶん有名な鶴舞公園経由で説明会へ行くこととした。
思い立ったが吉日、ということで、自転車で近所のスーパーへ。298円でヤキソバお結びセットを2つ、餅と饅頭を二つずつ購入した。まあ、天気もいいし外で弁当を食べましょう、という気楽なスタンスである。
しかし、弁当なども、昔と較べても安いものが増えた気がする。ちょっとしたハレ気分を298円とちょっとで味わえるのである。地下鉄を乗り継いで公園へ。予定では1時間ほど居ることができる。幸い公園のある駅から塾のある駅まではJRで一駅であった。未だにこの地区の土地勘が芽生えない。生来の方向オンチに加え、そもそも覚える気が起きないのである。これは生まれた神戸でもそうであった。なんとはなしに現実の土地よりは自分の精神世界が大事、なんて思って来た気がする。
だから若い頃は花見にはあまり興味が無かった。幼い頃には酔漢が恐かったりしたこともあり、櫻の美しさよりもなにか物騒な、面倒な印象があった気がする。今は自分が酔漢に早変わりする身、本居宣長や西行の櫻への思いなどを知るにつけ、櫻がいつの日にか特別な時間を示すようになった。とにかく満開の櫻は年に一回の週末にしか見ることはできない。それを逃すと、櫻はあっという間に散り始める。
それは人生のはかなさ、もっというと充実の間があっという間である、という感じに似ている。晴れやかであるがどこか切ない。直ぐに散ってしまうものだということを酔漢も家族連れもどこかでわかっている。その共有意識こそが、花見の楽しさであり、切なさである。
この世にいまある不思議、ここでこの空間で同時にある不思議。すべてがクローンであるソメイヨシノを、揃って地べたにベターっと座り込んで、食べかつ呑む。食べだせば眼は既にほとんど櫻の花を眺めることは少ない。少ないが櫻を天井に感じながら、居る。
話はせぬがこの一体感はなんなのか。花見客を見れば様々な人が居る。腰が曲がり、スーパーの袋からぼそぼそとなにかを取り出す老人は、数十年先の我が身であろうか。しかしみんな心なし笑顔である。ここは笑顔ばかりの空間である。
次男もしっかりしてきた。昔はなんでも親がやっていたが、知らぬ間になんでも頼めるようになった。久しぶりにこんなところへ来た、という。そうだなあ。きちんと予定を立ててさあ行こう、とするからなかなか行けないのだろう。これからはもっと軽やかに行きたいものだ。
外国の人たちの姿もある。中東系、タイ人、ブラジル系と思しき人々。ちょっと戸惑った感じや、孤立した感じもあるが、以前ほどではない。この10年くらいで外国の人がいることが普通の風景になった。
外国ではこんな祭りはあるのか、と次男がいう。花や季節に対する思いは日本人は強いが、例えばアイルランドなどでは長い冬が終わった時には春を寿ぐ祭りはある。ただ自然に対する思いの差はある。例えば月。西欧ではルナティックといえば狂気を指す。人狼も月が契機である。日本ではほとんどその気配はない。自然との一体感、というのが人種の性格的傾向や文化面で違うのではないか、というような話をする。
次男は僕の趣味であるオカルトやファンタジーの世界に親しんだ所為か、そのような話についてくる。また、この日本ではこのファンタジーというものが非常に普通のものになった気がする。この辺り、日本人の宗教感や神や超自然のものへのスタンスも含め、またゆっくり考えてみたいものだ。
雲もなく快晴、気温はもうすこし汗ばむ位だ。少し心残りがある感じで、駅に向かった。いい花見になった。
- 作者: 池田晶子,永沢まこと
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花見のあとちくさ正文館書店へ。
昭和34年10月発行の室生犀星の”蜜のあわれ”、函の金魚の魚拓がなんとも異様であるが、その魚拓は装丁家でもある栃折久美子さんが書店勤めの”女の子”であった時代に自ら購入した金魚で行ったものだというのを読んだ。
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蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)
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AMAZONでは魚拓版の書影が出なかったため自ら撮影。古書店で函を手にした瞬間のインパクトはいまだ鮮やかだ。
栃折さんは、作家に魚拓作りを頼まれた際、金魚は食に供さないものであり、死体、という感じが強いので、しり込みしたこと、しかししかたなく近所の金魚やに毎日金魚が死んだか聞きに行ったこと、大きな金魚は全く死なず、しかたなく特に殺すつもりなく大きな金魚を2匹購入したところ、きちんと世話をしていたが死んでしまって、魚拓にしたこと、を記している。
わざわざ殺したわけではないが、どこかで死んでくれないか、と思っていたのではないか、死んでほっとしたことはないか、という罪の意識が読みどころだ。
なによりも、この函の持つ異様な感じ、”わざわざ金魚をこのために殺したのか”という感じが、納得感を持って解明できた気がした。
とにかく、この本では金魚は”あたい”なのである。その金魚を・・・、と感じさせる点、作家の創意はやはり尋常ではない。