夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

2013年。

新年明けましておめでとうございます。

本ブログでは5回目の正月を迎えたことになる。2009年からの正月近辺の記事を読み返してみたが、帰省の記事やら、新聞のことやらで、まあ、あまり考えてることは変わらないようである。

正直、あんまり面白くもなかったので(残念)、ここは池田晶子さんのお言葉を、と思い”41歳の哲学”を手に取る。H16.1.15日号の週間新潮に掲載された記事、池田さんは原稿の締め切りに遅れられることがなかったと聞くので、H15年の年末あるいはH16年初頭に書かれたものであろう。もう8年も前、になるのか。

神道、神社について書かれている。お正月は神田明神へお参りした、と書かれているので、これは新年に入ってから書かれたようだ。

”なぜ神社はかくも気持ちがいいのか。

 清潔である。なんにもない。なにを教えるわけでもない。”

”合掌して顔を上げたそこには、何もないのである。あるいは鏡があるのである。”

日本人の例に漏れず、宗教的に混乱している僕は、特に一つの宗教を強制されることなく育った。ただ母親がクリスチャンである所為で比較的キリスト教と幼少期は近しかったといえるだろうか。

だが特に祈りを食事前に捧げることもなく、ただなんとはなく初詣や神社での振舞いに戸惑っていたのを思い出す。

その後は仏像にはまったり、祖父の葬儀で父方が神道(水戸、だからなのですね)であることを初めて知ったり、と順調に混乱して過ごしてきた。だがそうした混乱を混乱とも特段思うことなくここまできた。

新渡戸稲造は”武士道”のなかで、海外で日本人は宗教教育なしでどうやって道徳教育を行っているのか、と驚かれたというエピソードを記している。だが、こうした特定の宗教が強制されないこと、それが逆に日本の宗教性であるといえるのではないだろうか。

池田さんは書かれる。


”もし「宗教」というものが、何らかのことを教えるということなら、神社は何も教えていない。”

”万物が神であるか、あるいは万物に神が宿っている。そしたらこの自分だって神であるか、何か神に近いものである。自分と神とは超越的に別物だとする、一神教的な無理がない。”

なにも教えないという宗教。それは宗教と呼ぶべきなのかどうか。それさえ定かではない。それさえ含み、含まず、それも”神”。

”万物が存在していることの不思議に、気がつくだけでいいのである。”

禅、という超宗教が達した境地にいわば自然体でそのままの姿でいる。それが神道、というものの立ち居地かもしれない。だから禅も日本というこの地で発展したのかもしれない。

合奏したその先に、ある”なにもなさ”あるいは”自分”。

結局は”自分で考えろ”。


本年もまた、こういうことで行きますか。

ねえ、池田さん。


僭越なる呼びかけで申し訳がありません。本年も皆様、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

41歳からの哲学

41歳からの哲学

武士道 (岩波文庫 青118-1)

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