夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

宇野亜喜良展へ行った。

刈谷市美術館で開かれている宇野亜喜良展へ行った。

初日の10時半からは、昨日から名古屋入りされたと思われる宇野さんのライブペインティングがあり、トークショーもありサイン会もあり、と豪華なスケジュール。名古屋出身で76歳の宇野さんが、黒いジャケットに黒いTシャツ、ジーンズといういでたちにて時にトークを交えながら2.7M四方というボードに木炭にて描いてゆかれる姿を、膨れ上がった観衆が息を呑んで見つめた。
画家は演劇にも関係されており、背景を描かれる機会もあるのか、大きなボードによどみなくドンドン描かれる。

騙し絵的要素も入れた、と種明かしをされるサービスも入ったトークショーは、10代のころから絵画を志し、(なんと小学校で裸婦スケッチを学ばれたとか)東京へ出て横尾忠則和田誠といった人物と交わった鬼才の片鱗をキラリと感じる時間となった。

氏は言う、自分はイラストレーションという、今の時代はイラストというが。こうして言葉を省略することで、仕事も携わる人の意識も軽くなる、とおっしゃっているようだ(ケータイ、しかり、エロ、グロしかり。画家はグロを”グロッタ”と称されている。洞窟のゆがんだ美しさを示すグロッタの語をグロに当てはめていらっしゃるところ、画家のこだわりを感じずにはいられない)。自らの画業への矜持がギラリと光る。

イラストレーションがかっこよかった時代、いまはかっこいい画家がいない、ということだろう。僕は宇野亜喜良商店の美学を買ってもらっていると考えている、という姿勢は、与えられた条件の中で、それが自分の最もかきたかったことである、と毎回考えて仕事をしている、とおっしゃる画家の真っ白に敢えて自分を保持し、そのなかで美学を全開にさせる、と聞こえ、その凄みと覚悟を感じた。

その氏の美学の余りの純粋さに、蛾が焔に魅入られ焼かれることを恐れるように、宇野氏の本はすべてを持つ、というわけではなく自らセーブして来た。然し1990年発刊の”LUNATICO”をついリュックに入れて、あわよくばサインをもらおう、ということでいそいそと刈谷へ向かった。画家本人と接することができる、その魅力、例えば行けなかった池田晶子さんのサイン会の徹をば踏まぬよう。

結局LUNATICOへのサインは、余りの盛況で叶わなかった。しかし現地で購入した絵本、「もりでうまれたおんなのこ」の表3部分にはしっかりとサインを頂いた。左利きである画家と右手での握手ではあったが、記念に握手もしていただき、視覚、触覚(!)とも画家を体感させていただく貴重な機会となったのである。

年齢と美学は関係ない、というよりより繊細に先鋭化された印象のある宇野氏の近年の作品群を見るに着け、今後の画業に期待せずにはいられない。或いは一種鬼気迫るものとなるのか、はたまた桃源郷の軽やかな抽出か。画家はあるいはなんでもないようにほいっと我々の眼前にそのどちらも現出させてくださるのであろうと思いつつ、帰路を急いだ。

もりでうまれたおんなのこ (絵本のおもちゃばこ)

もりでうまれたおんなのこ (絵本のおもちゃばこ)

LUNATICO 宇野亜喜良1987=1990

LUNATICO 宇野亜喜良1987=1990