夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

日本人論は誰に言っているのかー日本人であることを求めないー

最近、
世界の中で日本人の存在感が希薄になっている、エリートがその責務を果たしていない、パラダイス鎖国だ、といった論調をよく眼にする。
日本人の開国を描く龍馬伝のブームも手伝い、日本中にこれでいいのか日本、という空気が立ちこめている印象だ。

これに違和感を感じる。

言っている内容にではない。内容についてはそのとおりであるとも思う。

違和感を感じる原因は、

貴方はそう発言するが、そのとき貴方はどうするのか、

である。
勿論こうした論をなして世間を、日本人を啓蒙し目を覚まさせ、鼓舞されているのだろう。しかしその中で貴方は、主体的に貴方は、なにをどうするのか、という思いが出てくるからである。

言ったら責任を取って自分で行動せよ、と言いたいのではなく、日本人しっかりせい、というときのそも日本人とはなにか、生き延びるとは、現在の世界2位の位置を維持したい、というのはどのようなところから出てくるのか、そもそも生きるとは?といところからしかこうした論は根本的なところには届かないように感じるからである。

こうした日本人論は、みみっちく感じる。論理の根元には、”オレが(あるいはオレの関係者が、親戚が、子孫が)ある程度保障されたシアワセな生活を維持するために働くべきヤツら(基本的に自分以外)が働いていない、けしからん”という思いが、どうも底の本音の部分にあると感じられるからであろう。

池田晶子さんは、年金の問題を論じたとき、みみっちくなるのは、その議論が根本的には、”オレの年金どうしてくれる”的なところから発せられているからである、というような趣旨のことを述べられていたと記憶する。

僕はそれに深く同意するものであるが、どうもこの日本人論には同じニオイを感じるのである。

問題をあくまで自分自身のものとして、自分自身のなかから全てを考えた、これが池田晶子、というヒトであったと思う。

その爽快感。

宇宙大の視線を持て、とも仰った。世界、日本、という視線を超え、人類、というものを悠久の永遠の中の一瞬とみなす視点。

そこには、日本人という発想を大きく超え、自分はたまたま日本に生まれ、たまたまイケダアキコをやっているにすぎない、という視点があった。

そこを起点に、自分とはなにか、ということを深く沈溺して考え続けられた。


人同士の義務的連帯感からの疲弊で、義務的連帯感上”安全”な”コーヒーはスターバックス、服はユニクロ、靴はABCマート”という消費が増えているという。自らの行動もスターバックス以外は同じになっていることに驚いた。もし頻繁にコーヒーを飲む立場であれば、たぶんスタバにも頻繁に出入りしているだろう。

正しいマーケティングによる、正しい囲い込みである。

その正しさとは、つまり”考えなくても、選んでいれば安心である、ということを選んだあとで幾度も感じることができる”、そんな正しさである。要は義務的連帯感への疲れから、選んでいればOKな義務的連帯スタンダード、であるのである。

日本の主な産業が、製造業からサービス業へ急激に変化している。サービス業とは基本的に24時間世間に仕える仕事である。一定時間で一定の成果を出せばあとは自由な製造業、というのはいわば牧歌的な部分があった。人に仕えるのはしんどい。

仕事で携帯が必要であるようになってから、基本的に人は仕事から離れられなくなった。意識のどこかで”いまここに携帯が掛かってくるかも”と常に意識し、おびえている。少なくとも、楽しく待ち構えていることはない。一瞬にして日常へ引きもどされる暴力的な道具、それが携帯である。よく新聞の投書欄に、携帯を持たないことを誇るものがある。人は持ちたくて携帯を持つものか。携帯を持たない仕事こそ、これから最も贅沢な仕事になるのかもしれない。

勿論、持たねば仕事にならない、と周りが全て考えているなか、自分は携帯を持たない主義です、と宣言し、そして周りにとってそうした態度がずるく感じられる、というのでは贅沢とはいえないが。携帯を持たずともよし、とされる職場環境である。

しかし、もうあきらめたらどうだろうか。あきらめから考える。大凶から、ゼロベースから考える。
ベトナムで、中国で、がめつく、あつかましく、しぶとく、たくましく仕事をやりまくる・・・ムリではないだろうか。日本人のだれか自分以外の誰かが、日本人としてやるべきそれをせよ、という論調はもうたくさんだ。自分の税金で(あつかましくも、頼んでもいないのに)働いている公務員がたくさんの金をもらって愉しく暮らしている、けしからん!、というのが公務員バッシングの全ての基本的な出発点であると思うが、そう思って議論するのは、たいへん脱力する。エリートよ、働け、と、日本よ、働け、と自分以外の人間にモノ申すのはもういいでないか。

あきらめて、そのさきにあるものを見つめる生活。本当の連帯感を見つめる。例えば勉強をすることが、本来の勉強することではなく勤勉さや記憶力を測る手段であり、勉強内容からは乖離しているように、連帯感、というものもドクサにまみれている。これからは義務的ではない、連帯するという本来人間に必要な意味でのピュアな連帯感を求めてゆきたい。

そこでのキイワードは、たとえば加島祥造のいうところの"求めない”というようなところにあるのではないかと感じている。

”哲学は構築されているのではない。感受したものを問うことだ。夢を見るように、問い続けてゆくことだ。”
           池田晶子 事象そのものへ! P.25

求めないで、感受する。そして"考える”。そのような生活。