裁判員制度が始る。
この制度が出来た理由がどうも腑に落ちない。
そうだそうだおかしいよな、という文章には良く出会うが。
昨日の読売新聞(名古屋版)に、いわゆる専門家の意見を見つけて、そうか、そういうことになっているのか、一般的には、ということが、個人的には初めて解った。
解ったが腑に落ちたわけではないのではあるが。
四宮啓氏は、国学院大法科大学院教授、ということだから、本件に関するいわば客観的に見ることが出来る立場の方であろう。
”専門家任せの裁判で良いのかという問題意識が、そもそもの裁判員制度のスタート地点だった。”
”検察官の有罪の証明は十分か、量刑はふさわしいか、その手続きは適正か。このように、私たちの法律がきちんと機能しているかどうかをチェックする場が裁判だ。だからこそ主権者である国民に裁判官として参加してほしい、というのが制度が持つ意味だ。”
ふーん、そういうことだったのか。
しかし、そうであれば、政治、首相、内閣総理大臣ですか、その判断、重要判断にも裁判員の相当する判断者をランダムで選ぶべきだよな。
この構図、全く同じである。
ああ、どうぞ、そういう仕組みならそのように。
そういう反応になりそうだが。しかし、要は裁判官の判断は信用できない、あるいは一生懸命判断しても"国民の皆さんは”どうもご不満のようだ。なら自分でやってみろよ。いつでも代わってあげまっせ。
そう聞こえてしまうのである。どこかおかしいかな。
僕も仕事で、しんどいのに文句を言う相手がいたら、”ああ、どうぞ、今からでも代わってあげるよ、自分でやってみたら?”と思うし、言ったりすることもある。
そうか、同じ人間、おんなじ気持ちで同じように反応したんだ。
しかしなんか変だ。それが当たり前になって、制度になるんですよ?
それって、愚痴じゃなかったっけ?相手の立場に立って見ることができない相手に対する文句じゃなかったっけ?
それが、当たり前のこととして制度になる?
どうも次元が低いように思ってはいけないのだろうか。
矜持、という言葉がある。
人のことに文句をつけるほど自分は偉くは無いが、しかし、どうも矜持に欠けているような気がするなあ。
まあしかし、人の生き死にに関する判断を独りでやるのはしんどい。他人が、それも”国民の代表が”いっしょになって判断し、責任を、世論を、一緒に受けてくれるなら、そんな楽なことはない。僕が裁判官ならそういう気持ちを持つことは間違いない。
でもそれでいいんかな、とも思うかもしれない。
実際の裁判官の人びとはどのように感じているのだろうか。
だが、しかし、裁判官個人個人ががそういう制度を要求したわけではないだろうし。国の制度がそうなったんであるからして・・・?
うーーーん。
そんな僕のもやもやした気持ちを後押しする文章2つ。
読売新聞”編集手帳”2009.4.22版を読んで。
毒入りカレー事件の判決を決断した裁判官の苦悩を慮りつつ、江夏の球を打てないと言った長嶋を叱責した川上監督のコメントを引用する。
「おまえには江夏のボールを打つだけの給料を払っているじゃないか」。
直接カネの話ではないだろう。カネを払ってその分の矜持を、意地を、誇りを持たせているのではないか、と川上監督は言っているのだ、と読んだ。
以下引用。
”裁判に市民感覚を反映させることが裁判員制度の目的ならば、目的の達成も安くはない給料分の内、プロが精進すれば済むことで素人を煩わす必要はない”
この文を読んで、医者、という職業を思った。家が医者、頭がいい理系の奴が選ぶ最良の(もうかる)仕事の一つが医者だ。
そんな動機で医者になる人がいるのかどうかはわからないが、いざ、その仕事に面してみると、裁判官とおなじく人の生き死にの問題がいやおうなく迫ってくる。こんな仕事だったのか!!!
今回の裁判員制度、同じように"死刑判断、自分でやるには重過ぎる!”というのはあるのかな?医者にしろ、裁判官にしろ、こうして外野でえらそうにいうには大変すぎる仕事だ。そして、そういう覚悟が抜けてしまうケースもあるだろう。
池田晶子"私とは何か”P.74−75
”素人に期待する司法”の項、以下引用する。
”裁判員法の成立により、国民が裁判に参加する道が開かれたのだそうだ。
というふうに聞くと、なんだか画期的に民主主義的なことのように聞こえるが、そこはやはり民主主義のこと、民主主義それ自体のもつ陥穽は、ここにも存在していることに留意したい。
この場合の「国民」とは、要するに、裁判に関する素人である。この素人に期待されているのは、おそらく、生活常識に基づく健全な判断力であろう。そして、司法の側には、そのような者を参加させることにより、独善的閉鎖的すなわち世間知らずと言われ続けてきた自身への批判をかわそうという意向があるのだろう。
けれども、「生活常識に基づく健全な判断力」と言えばひと言で言えるけれども、これ自体、ごく稀にしか見出せない。”
”このような安直な方策ばかりを画策せずに、裁判官のプロ意識、すなわち生活意識に基づく健全な判断力を育成することを努力するべきである。自分の判断に責任をとるという意識こそが、人間の質を高めるのだからである。”
質の高い人間を目指し、自分の判断に責任を取る。言うは安し、ということであろうが、しかし、目指したいものである。
- 作者: 池田晶子,NPO法人わたくし、つまりNobody
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