夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

正義と品格。

内田樹 「サル化する社会」を読んでいる。
P.90より引く。

「品位ある世界」(the decent society)とは、「その制度が人びとに屈辱を与えない社会である」(13頁)と著者は定義する。キーワードは「屈辱」である。(中略)ある制度が人にとって屈辱的であるかそうでないかを決定するのは「コンテンツ」ではなく「マナー」だからだ。

 


 例えば、社会福祉社会福祉制度がうまく働かない理由の一つは、福祉を実施する側が受給資格を与えるために構造的に「屈辱的なテスト」を課す傾向があるからである。
現在の日本では、生活保護受給の為、両親や親戚に援助可否を確認することが通常必要であり、DV・虐待等の問題がある場合などや、とにかく自身の現状を知られたくない、という場合は、生活保護はとにかく受けたくない、という判断になる場合がある。また通院等の特段の理由がない場合は車の所有は認められていないと認識している。


もちろん、確認で援助が可能である場合もあるだろうが、その率は大変低いようだ。水際作戦、ということで、安易な受給を防ぐ、ということになっているとの理解だ。


ここへの対策は大変難しい。というか一律で決めきれないという感じがする。


この内田さんの一文はアヴィシャイ・マルガリートの「品位ある社会 〈正義の理論〉から〈尊重の物語〉へ」(風行社 2017年)を論じたものだ。内田さんが要約する作者の対策・考え方は以下のようである。

 

「品位ある社会」といのは「品位ある社会とはどういうものか、どのようにすれば実現できるのか」について熟考する人々をある程度の比率で含む社会だ、ということである。(中略)「屈辱を与えない」という「何かが起きない」事況のことである。品位は「この社会には品位がある」というかたちで実定的に実感されるものではなく、「この社会には品位がない」という欠性的な仕方で実感されるものである。
P.91-92 サル化する社会 内田樹

 


全ての人に品位を求められるものではない。そもそも品位とは一定のものでは無いし、人それぞれであったりする。品位という形で人がそれを実現したい、と思わないケースもある。それでもそれはたぶん“やさしさ”のようなものにつながり、次第に万人が”どうもそっちの方がいいようだ”と感じるものを志向すること、であると考える。


水際作戦をやる役所の方々は、別にしたくてしているのではないだろう。そういう上司の方針であり、国の方針だ、との意識であろう。だだもれで、だれでもかれでも、認めていては切りがない、というような感覚でのことかと思う。


だがそこで”尊厳”のようなものを手放すことを求めているのだとしたら。やはりそれはちょっとどうか、と私としては考える。


内田さんも”賛成の一票を投じる”とおっしゃるアヴィシャイ・マルガリート氏の考えに、私も賛成したい、と思った。


(品位、ということばは難しいですね。品位を持て、ではなく、品位を持ちたい、ということでしか生まれない、個人的なものであると思います)