夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

考える、とはどういうことか。

小林秀雄は言った。

考えるとは、神が迎えること。
対象を深く考え、親しくなることである、と。

考える、にもいろいろなレベル、があるようだ。
知る、ということに近い、知識として把握している、というレベルから、吟味、反芻、思索を経て、深い洞察と”親しみ”を感じるレベル。

後者のような境地について、池田晶子さんはこう述べる。

”もうすこし実用的な言い方をすると、きちんと考えていると悩まなくなります。考えることが自分から始まって宇宙まで広がると、その開放感とか自由感というのはすごいものです。なぜというと、非常に大きなところから自分を見る視点を獲得するからです。相対的な視点が獲得できると、我々は日常の暮らしにべったり張り付いているわけですが、それを同じ場所にいながら、また宇宙大の視点から見ることができるから、非常に自由になれるわけです。

 まあ、難しいことを言わなくても、この考えるということは、何より面白いことなんです”

   池田晶子著  あたりまえなことばかり P.103より

あらためてこうして書き写して見ると、池田さんという人が接しており、感じていた境地の深みと楽しみ(三昧、や醍醐味、といったコトバがでてくるような)が伝わってくる。

そして人に対する親切さ。

悩むな、考えろ!

彼女の飛ばす檄は、それはこころからの親切さからなのだなあ、と感じるのである。

自らの達した境地、これを惜しげもなく、開陳し、導こうとしてくれている。

残念ながらたとえば僕はこうしてそのまま文章を書き写してみて、コトバがぼーっとした脳幹にすこしずつ染み入ってきて(いや、比ゆ的にですよ)、やっとこさなんとなくそうかなあ・・なんて呟いているようなレベルだが。

エスも、ソクラテスも、そして池田さんも、ことばはその意味を受けることが出来るもののみが受けよ、といった意味のことを言っている、もしくは伝えている。

4聖、といったレベルの覚者たちの述べることは、地脈で繋がっているなあ、と感じることが多い。あ、このことをこのヒトはこういった料理の仕方で述べているなあ。なるほどなあ。

死、生、言葉。

言葉にこんな意味がある、ということは、子供のころは思いもよらない考えであった。言葉がただと思っているが、大きな間違いだ。ただのケータイで話し放題??とんでもない。

そういわれて、池田さんの著書を読んでいるいまの僕なら、やっとこさ”そうだよなあ”と感じるレベルだが。しかし、言葉は道具、しゃべるためのもの、という自覚は、これは”考える”を経ていない魂には、ごくごく普通の感覚であろう。

だから池田さんは言うのだ、親切で。言葉を大切にしなさい。

別に誰に頼まれたのでもない。純粋な真実だ。ヒトにわけがわからない、という反応をされても、真実なのだから。でもわざわざ言わなくてもいい。でもこうして著作に残してくれた。この親切さ。”放っておけないのよねえ”。

そしてそのことも、なんのてらいもなく、真実として記す。池田は親切だ。

日本語の回りくどい表現、おためごかし、親切めかしたほのめかし。

そういったものをそぎおとした生身の”真実”、裸の"言葉”、言葉の骨格、事実の核、のようなものを感じる瞬間である。

すがすがしい。潔い。

このあたりが、池田さんの文章の魅力であろう。皆さんにはどうかはわからないが、少なくとも僕には。



生きるも死ぬもすべて他力によるという真実を、現代社会に向かって果敢に語った鮮烈な生涯。

その清冽な言葉の中にあなたは現在しています。

         引鶴の空蒼ければ湧く涙


対談者で、池田さんの親のような世代である大峯顯氏は、対談中、池田さんはこれからもっと仏教について学び、話し合っていくだろう、と述べて、感じていたところ、こうして飛び去ってしまわれた。

そう感じていることが、共著のオビに没後記されたこの短い言葉に凝縮される。まさに、その正しい意味としての”墓碑銘”といえるであろう。

最後の一句蒼穹のかなたに尾を曳くように独り飛び去った一つの魂を、汚濁に満ちたこの世界からはるけく臨む。

詩人の魂。

見送る我々が感じる孤独。”最初からそうであった自分の「自由」”(睦田真志)の上にある孤独。

詩人同士の魂の触れ合いの深さと豊饒性を感じる刹那である。そしてうらやましく。

涙、湧くんだよなあ。

あたりまえなことばかり

あたりまえなことばかり

君自身に還れ 知と信を巡る対話

君自身に還れ 知と信を巡る対話