夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

夢とは、何か。

胡蝶の夢、という物語がある。

 

池田晶子さんの著作を読むと、池田さんが夢、というものに

いわば”ひっかかって”らっしゃったという印象がある。

 

翻って自分。

 

夢は、夢、という印象である。

つまり、

 

睡眠時、脳がいわば”眠った状態”で”現実”に反応する必要がなく

自由に浮遊し、”昼間”感じたことなどの影響を受けながら、

 

特に制限なく、しかし、”自分”のアナザストーリーを

目撃する。

 

ん?

 

”自分”??

 

”目撃”???

 

ユング精神分析では”夢判断”を重要視する”

実感も体験もない、単なる知識であるが、そのようなことを聞くことがある。

 

精神に”夢”がそれほど関係するのか?

 

たしかに”抑圧”した意識が”噴出”する場ではあるだろう。

 

だが、それがそれほど深いものか?

 

意識の”癖”を知るよすがとなる。

 

 

それはわかるのだが。。。

 

 

今まで、いわゆるインドの精神世界、というものに接する機会は少なかった。

 

知識として、ある。”ウパニシャド哲学””ブラフマー””アートマン”。

 

語感からして”神を人格者化しているのか”と思っていた。

 

各地にある”神”への考え方のいち地方版である、というような

中身を知るわけではない”高校の倫理社会や世界史的”知識しかなかった。

 

仏教が、インド精神史(ヒンズー教)から生まれたと聞けば、

 

たぶんそれは新約聖書に対する旧約聖書のようなものか、という感想であった。

 

つまり、いわゆる”地方宗教”の一種である、との認識であった。

 

兵庫県篠山発祥という”デカンショ節”。

 

僕は小学校時代に、宝塚出身の手塚治虫に深くはまった。

 

たしかそのなかで読んだもののように記憶するが、盆踊りの掛け声に

デカルト、カント、ショーペンハウエル”????

 

なんじゃそれ、である。

 

盆踊りと哲学者、まったく関連ないではないか???

 

明治、大正期の”青年”の、”外国への熱い想い”、そしてそれを認め、自分たちにはわからないが、すごい思想に取り組むまぶしい次代を切り開く先鋒者たち、という風になかば揶揄しつつ仰ぎ見る庶民がなぜか“盆踊り”の歌に取り入れてしまった頓珍漢、という風に、この”デカンショ節”を受け取っていた。

 

ああ、大正期は思想も輸入していたんだなあ。

 

そんな感想でいままで来た。

だが、そこにはそうした"哲”の人への、翻って”考える”ということへの畏敬の念がなかったか。

 

その同列の”被揶揄者”のいちパターンに”イン哲”があった。

 

ボサボサの頭でどてらを羽織り、眼はしょぼしょぼ、高邁な知識に絡み取られ、

世間から離脱してしまっているアパート暮らしの学生、のイメージか。

 

インド哲学。それがいわば西欧系、あるいはそれを受ける形で発展した日本の哲学界とは別の体系。

 

インドガンジス河に入り沐浴し、ヨーガにはまる米国西海岸のヒッピーに連なる文化。

 

これまた定型的に勝手にそう認識してきた。

 

そう、西欧哲学や禅、といった思想に、深く分け入ることがなかったのと同様、

インドの哲学とは、”ご縁がなかった”。

 

日本の、この日常、例えばTVを見たり、新聞を読んだり、さまざまな本を読んだりの生活のなかで、こうした思想へのアクセスするきっかけは、ほぼなかった、と言っていい。

 

きっかけは、ケン・ウィルバーの著作に接したことだろうか。

 

いわゆる“瞑想”、修行を行うとともに、ケン・ウィルバーはインドの精神世界に関する本を濫読したという。

 

ん?インドになにかあるのか??

 

魔術、といういわばいかがわしいとわれていた体系に、惹かれていた。

 

古くはたぶん”ディズニー”だ。そこには多くの魔法使いたちがいた。

 

そしてあまたの”魔法少女”たち。

 

ALICEでは直接の魔法ではないか、いわば”夢にうなされて”いるようなAnother Worldに遊ぶこととなる。

 

そこにあるいは含まれ、全くではないにしろ”重なる”精神体系として”錬金術”がある。

 

卑金属を金にする、という表面的な理解のもと、ただ”金色になる合金を作って喜ぶ前近代の技術”だろうとたかをくくっていた。

 

だが、ウィルバーを通じ、キリスト教やインドの哲学を取り入れたイギリス発の精神活動であった”神秘学協会”を通じ錬金術というものを見てみたとき、

 

そこで示す”黄金”とは金属のことではなく”精神”である、精神を”神と同化”することこそその目的である、ということを知った。

 

うーん、単なる”合金作成術”ではなかったのか。

 

もちろんそこから”科学”が生まれ枝分かれしてゆく。

 

しかし、池田さんはこの”科学教”、科学こそあたりまえの真実であり、魔術という”誤った、劣った、前近代的な”考え方を払拭するものであり、すべてがこれでわかる、という

(僕にとっての)日本の常識、これはこれでいいのか?その盲信状態こそ”宗教”のあやうさと同じものではないのか。

 

そうご指摘されてきたように、理解している。

 

そうした視点でみる、”インドで生まれた哲学”。

 

どういうものなのか。

 

 

非二元論、であった。全ては一である。全、空、時間も空間も、

あなたもわたしも、神も人も、魂もエゴも、意識もない。

なんの境界もない。

 

ひとの生とは、いわば映画のようなもの。

 

スクリーンにあたるものは、全てを受けいれ、全てを写し、そして写されたものに影響を受けるわけではない。

 

いつも、白い。

 

空には雲がある。雷鳴がある、天候がある。

 

太陽がある、月が、星が、宇宙が、ある。

 

だが、空は雲そのものではない。雲は流れ、変化し、留まらない。

 

空は、映画を映すスクリーンのように、ただ、ある。

 

空と、”私”には境界はない。グラデーションとしての、差はある。

 

だが、それだけだ。

 

温度に熱い、冷たいはあるが、そこにはグラデーションしかないのと同じく。

 

ソクラテスプラトンの”洞窟の比喩”、とは、このことを示しているのではないだろうか。

 

 

 

人間、あるいは現象に対峙したときのみ、単なる約束の結果として”熱い”、”冷たい”が生まれる。

 

同様に、“善い””悪い”はない。

 

それも、グラデーションだ。固定化した、なにかがあるわけではない。

 

その時代、歴史で、“善い”も”悪い”も変化する。

 

そのことは、そう説明されれば、すべての人は納得するだろうが、

 

 

だが説明されなければ、”そういうことになってしまっている。”

 

ドクサ。

 

夢、とは、覚醒したこの瞬間(時間はない中での永遠のなかでのことであるが)に

 

睡眠時のこととして示す語である。

 

だが睡眠していたのは、誰か。

 

夢を見ているときの”現実””覚醒後”とはなにか。

 

夢中、であれば、夢世界における”覚醒後”こそ”夢のように儚いもの”ではないのか。

 

儚い。人が見る、夢と書く。漢字とは、そのものが深い精神体系を示すものであるのだなあ、と思う瞬間である。

 

今、起きている。夢に対しては、まだ、どこか、すこし、整理しきれていない”自分”がいる。

 

いましばし、考えてゆきたいと、思う。

 

p.162 ラマナ・マハリシの教え

マハリシ なぜあなたは、世界のことだとか自己実現の後に起こることについて、想い悩むのか。まず自己を実現せよ。世界が知覚されようが知覚されまいが、そんなことは問題ではない。眠っている間は世界の知覚はないが、それによってあなたの探索に何か得るものがあるだろうか。反対に、今は世界を知覚しているが、それで何か失うものがあるだろうか。世界を知覚するかしないかということは、ジュニャーニにとってもアジュニャーニにとってもまったく重要な問題ではない。それは両方によって見られるが、見方が違うだけである。

”ラマナ・マハルシの教え”

山尾三省訳、めるくまーる社、1982年 

 

 

ラマナ・マハリシの教え

ラマナ・マハリシの教え

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

善悪は、無い。

全てがグラデーションであり、

 

境界は本来無い、という気づきは、当たり前のようではあるが、言われて気づくことでもある。

 

時代による変化。進化か、退化か、というジャッジもまた、裏に”善悪”の発想がある。

 

楽園喪失、アダムとイヴが知恵の実を蛇(アダムの最初の妻である”人ではない”リリスが、という説もあったように思うが)にそそのかされ、神に追放されるという寓話、

 

あれはいったいどういう意味なのか、とずっとひっかかってきた。

 

そうか、これは”善悪”という観点を得たこと、私と他人、人と私との比較の観念を得て、そこから逃げられないことこそが”下界に住む”ということを暗示しているのかもしれない、と思った。

 

善悪はつらい。物を得れば、その喪失を同時に想う。時の概念を得れば、時の経過により”わがこの身体の衰え、衰退への変遷”を想う。

 

全ては過ぎ去る、永遠はこの世にない。

生老病死。生きることはつらいことだ。

 

ほとんどの私を含む皆さんの”心の根底に”ながれる気持ちはこんなところではないだろうか。

 

であれば、

 

手放す。持たない。捨てること。金銭でも、プライドでも、不安でも、なんでもかんでも。

 

ブッダが王族である身分を捨てたことに、”なんてもったいない””さすが悟る人は違う”などという感想をずっと持っていた。

 

そこに彼我の、差異を感じた。やはりわたしは残念な人間だ。

 

だがそれは、善悪と差異を、比較を捨てる比喩ではなかったか。

 

勿論ブッダは捨てたのだろう。その身分を実際に。

 

だが、そのことが示すこと。楽園追放で、人間が陥った”この世地獄”。

 

それが人がいて、自分がいる。時間と空間のなかに死すべき”私”がいる。

 

その思いのことだ。

 

 

で、そこに気づくこと、そのことがすなわち、

 

 

自らが”楽園”たること。

 

であるだろう。

 

 

だがしかし、この”楽園”の語、これも本来は違う。

 

楽も苦もない。

 

”無苦楽園”

 

とむしろ表現すべきでも、あるだろう。

 

 

泣きながら、局部を植物で隠して天使に追いやられる、

あの絵を描く画家は、果たしてそのことを、 

感じていたのだろうか。

(そしてその画家は、たぶん私だ)

纏めると。

よく聴くがいい。

まず、思考について話そう。

思考とは、過去の知識の寄せ集めに他ならない。

思考は、決して現在である(今ここ)を知らない。

思考は(今ここ)を知ることができない。未来と過去について考えることはできる。

未来について考えていたことも過去だし、未来自体も過去の投影に過ぎない。

つまり、思考とは過去の知識、体験の塊である。

記憶と思考は直結している。

 

P.155 ヘルメス・J・シャンブ ”それ”は在る

 

会社生活の中で、辛いな、と思う体験があった。

ある事象が起こる。起こることが予想される。それは来てほしくない。

 

そんな思いを持って過ごした。

 

その時、助けとなる言葉を探し、出会った言葉。

 

それが”将(おく)らず、迎えず、応じて而して蔵(おさ)めず”

 

という語、荘子の言葉である。

 

言葉、漢字が意味から来ているということを実感する語、

 

軍隊をおくるもの、それが”将軍”。

 

忸怩たるネガティブな思いを、将来の自分に送る(将る)ことがないよう。

 

将来の自分は、(仮に過去の自分からの記憶として)ネガティブな思いが送られてきたとしても、

 

それを”迎える”ことはしない、と決心する。

 

応じる。事象は起こる。起こることが決まっている、とか決まっていない、という次元をこえて、

 

すべては起こるべくして起こる。

 

起きてはいけない、やなぜ起こるのか、はない。

 

起こる。ただ起こる。

 

 

そして、ただ、応じるのみ。応じることしかできない。応じてよい。応じる。応じる。

 

そして、”貯蔵”しない。貯蔵とは現在と見える”出来立ての過去”を、時間がない世界で偽りの時間があることにして”送る””置いておく”行為である。

 

それは誤りだ。蔵めない。蔵めない。

 

全てのことに、そうして接する。

 

 

いやな思いはある。避けられない。それは来る。

 

それを、どう“視る”のか。

 

そして“分かる”。そうであるとわかる。

 

自分や過去や、記憶や未来は、無い。

 

そう見える、とてもそう見える、そうとしか見えない、

 

そんなものはあるのだが、だがない。

 

ここはすごくわかりにくい。わかりにくくていいのだ。

 

誰が誰にわからせるのでもないから。

 

全。

 

 

”いやなこと”に接することは、あるいはこの言葉が導いたことなのかもしれない。

自ら辿り着いたのかもしれない。

 

”自ら”??

 

仮象胡蝶の夢たる現実の手触りは、具体的でこの目、この手、この記憶、この肉体で”感じている”ので、有るとしか思えない。

 

夢と現実を比された池田さんの思いが今一つわからないこともあった。

 

だが、池田さんはもしかしてこのことをおっしゃっていたのだろうか。

 

起きれば忘れる”夢”、”死ねば”わすれる"今生”。

 

本質的には同じなのか。

 

個体と液体と気体と空間と、生きると生きてないと、私とあなたと、

 

レベルは違うが同じもののレベル差。

 

それが”どうも違っている”ように感じさせるがゆえの”偽りの差異”

 

差はない。境界はない。

 

 

 

?それ?は在る―ある御方と探求者の対話 (覚醒ブックス)

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14歳からの哲学 考えるための教科書

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意識とは何か。

 

 

 

意識とはどう定義すべきであるか。

 

ユングのいう集団的無意識、というものは、感覚的には超意識的というか、

 

精神の普段ある領域でのアップデートされる共通的なもの、という印象もあるし、

あるいはいわゆる太古からの動物的記憶、DNAへの記憶(記録)という印象もある。

 

後者であれば、それは自らを形作る”この”遺伝子固有のもの(今持っているDNAだけのもの)という印象があるし、

 

前者であれば、あるいは全存在の経験データが今も/今までも/これからもずっと

記憶されるアカシア?的な全宇宙的な結果である印象もある。

 

ただ、どちらかというと、”個体としての存在”と仮に意識するものへの〝外界”からの

アプローチの結果の集積、というような感触を持っている。

 

錬金術、というと、いままでは”合金を作る技術”=科学の萌芽的技術論、というイメージがあったのだが、

 

最近複数の錬金術(古代錬金術ともいおうか)の記述を読むと、錬金術の“金”は実際の金属を示すというよりはむしろ精神を金に例えて、精神の”神化”を目指す精神運動=取り組みであった、というものがあった。

 

金属を合金にし、”見た目金色”になるのをただ喜んでいるいまいちの取り組み、という印象があったのだが、金が精神を象徴する、といわれるとその印象はがらりと変わった。

 

ペインボディをいつも観察していると、ペインボディと思考のつながりを断つことができます。思考とのつながりを断たれてしまったペインボディは、意識へと変わります。痛みが意識の炎を燃やすための燃料に変わり、結果的に意識の炎がいっそう明るくなるのです。これが

一般に知られていない、古代錬金術の解釈です。つまり、卑金属(=苦しみ)を黄金(=意識)に変える技術のことを意味しているのです。苦しみと意識のあいだを走る亀裂は癒され、わたしたちは満たされます。そのレベルに到達できたなら、もう新たな痛みをこしらえないことが、わたしたちに課せられた使命なのです。

 

 では、ここでプロセスをおさらいしてみましょう。まず、自分の感情的な痛みに、意識を集中させます。それをペインボディだと認識します。「わたしの内面にはペインボディがある」という事実を受けいれます。ペインボディについて、解釈してはなりません。判断を下したり、分析したり、自分の都合のために「ペインボディは〇〇が原因だ」などと、決めつけないことです。「いま」に在り、自分の内側を観察しつづけるのです。ペインボディを観察する人になりましょう。これが「いまのパワー」につながる方法です。「いまに在る」ことから得られるパワーです。そうしてから、自分にどんな変化が起こるか、ようすを見ましょう。

 

 P.61-62 エックハルト・トール「The Power of NOW」

     ”さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる” あさりみちこ訳

     徳間書店 2002年

 

「いまに在る」というありかたは、ケン・ウィルバーが採るところの「目撃者」というありかたに通じるものだろう。

 

自分に起こる意識は、さまざまな条件や過去という知識をいま想起することでの反応にすぎない。

 

空に雲があるように、この世で鳥が囀るように。”わたし”という全、空、全てのなかあに起きる”気持ちの変化”、これが場合によっては”ペインボディ”になる。

 

個である”わたし”(全であるわたしとは別の)といってもいい。意識=エゴ=この個体に”固有であると思いたい”もの。

 

それを”観察”する。

 

ここがキモだろう。観察する、という行為は、前提として観察対象を自らのうちに含まない。含めることができない。

 

だから”観察”というのである。気づきを、誘う。

 

これがウィルバーのいう”観察者にやすらぐ”ということなのだと解釈している。

 

このあたりの考え方は、ケン・ウィルバーエックハルト・トール、デビット・R・ホーキンズ、ヘルメス・J・シャンプ 各氏の思想のなかでは、ほとんど(表記のニュアンス差はあるが)共通している感触である。

 

これがいわゆるブッダやイエスに発する”宗教”となる以前の原初の思想の根源でも

あるのかもしれない。

 

 

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる

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ニュー・アース

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“それ”は在る

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存在することのシンプルな感覚

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碧巌録〈上〉 (岩波文庫)

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錬金術 【新版】 (象徴哲学大系)

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執着とはなにか。

 

執着の反対語はなんであろうか。

 

ドクサの強い語である。

 

語に接するだけでも、なんらかの”執着”を自我に感じるほどの

パワーのある語である。

 

今のわたしの気分では、たぶん”手放す”だ。

 

反対語、というものは、語が別々である、という意味だ。

 

非二元的に言えば、これはありえなく、手放すことと執着はまだら模様のある

グレードということにもなるだろうが、そこはまず置いて置いて。

 

手放すことは、むつかしいが、実施してしまうと、ほっとする。

 

これはたぶん、いわゆる”片付けの魔法”に通じるものだろう。

 

モノを持つ。経験を持つ。関係を持つ。

 

これを手放すときに、自我はこういう。

 

”もったいないよ””もう持てないかもしれないよ””一期一会だよ”

 

かつて、古本を買うときはいつもつぶやいたものだ。

 

”古本こそ一期一会”。

 

これはそうかもしれない。執着はとぎれない。

 

此の世の生。執着は”生”と密接に繋がる。

 

執着するもの=財産、記憶、経験、関係性 を得るために、自分は生きている、

とながらく思うように育ってきたように思う。

 

だから、執着は苦しい。

 

そして、愉しさと並び、”苦しさ”も実は自我にとって甘美な”生きるよすが

であったりする。

 

自我にとって、苦しさはエネルギー源である。どちらかというと、愉しさよりも

強力で持続的で、より破壊的だ。

 

所持すると持つ、”喪失への不安”。

 

これも苦しさである。

 

これは仕事になる。そう、セキュリティだ。

 

 

ここは一丁目一番地(政治でこの言葉がつかわれると、大変に胡散臭く思っている(笑))だ、とみんなは思う。家族、自分の財産を暴漢から、泥棒から守らねば。

いや、その通りである。

 

だが、それは”不安から発生するビジネス”である。

 

愉しさと共に、生存欲(健康食品等)、性欲(アイドル、メディア)と共に

3大ビジネス供給源であろう。

 

真善美、に繋がっている感があるのがまた強力である。

 

そして、非二元、からすると、これまたよきこと、LET IT BEではあるのだが。

 

だから、”これはいけない”という思いは(持ってもいいが)要注意ではあるだろう。

 

これはいけない、という思いから、まずは手放すべきだ。

 

手放さなければならない、ではない。そう、ポロリと、しらぬまに、”滑り落とす”。

 

そんな感じが理想形だろうか。

 

 

吾妻ひでお氏が亡くなった。69歳。

 

上述の段でいうなら、”幼少期の記憶”。

 

甘美でかけがえのないものだと、思っている。

 

思えば、私の幼少期の頭のなかは、ほぼアニメ、マンガがそのままエンドレスで

流れている感じであった。

 

世界、が怖かったのだとも、思う。自分はこの場にふさわしくないのではないか。

 

そんな予感めいた感触が、あった。

 

これは、今も、心の根底にあるのだが。

 

頑張らないと、この”自分”は、この世にうまく適応できない予感がする。

 

そう感じていた。

 

その時の逃避は、絵本であり、本であり、マンガであり、アニメであった。

 

吾妻ひでお氏の作品にであったのは、幼少期を過ぎた頃であった。

 

ライダー怪人と怪獣の世界を経て(終わらず続いてますが)、次に来たのは島村ジョーとフランソワーズ。で、アトムとサファイア

鬼太郎にドラえもん。トト子とおそ松。

 

そうした懐かしいマンガを漁って読んだ。これまた周りに同調者はほとんどなく。

 

あいもかわらず、世間一般からははずれている感いっぱいであった。

 

吾妻ひでおはそのころ出会っただろうか。時期的には永井豪と同時期。

 

まさに”2大トラウマ(いい意味で)”作家であっただろう。

 

吾妻さん、ありがとうございました。”自分の魂にとって、(他人にはどうおもわれようが)いい絵を描きたい”、という思いは、吾妻さんからもだいぶチアアップ頂いたように思います。

 

それこそ”甘美なる執着”であったのかも、

 

知れませんが。

 

 

 

 

 

死とは何か。

池田晶子さんが、問い続けたこと。


例えば、最近よく引用させて頂く、ホーキンズ博士の本、"私"にはこうある。(p.338)


 死とは、自己として同一視していたものをなくすことを意味しています。したがって、死にはさまざまな階層があると言えるでしょう。肉体の死に対する恐怖は最も基本的なものであり、記憶や感覚、自分の人生の物語をなくしてしまう恐怖がそれに続きます。さらに、感情体をなくすなどの恐怖があります。しかし、すべての死の土台になる本物の死は、ーそして自我が最も恐れるのはー自らを分離した自立的な存在として見る自我の喪失です。肉体を"わたし"とする感覚の喪失は死として体験されます。実際のところ、それが唯一起こりうる本当の死と言えるでしょう。


以上引用


自分とは何か。魂とは、私とは、と問い続け、自分とは"この肉体ではない"と感得されていた池田さんであるが、アンチエイジングや(肉体の補修を前提とした)クローン技術などを前にして、人間の意識として敢えて"私とはこの肉体である"と考えたらどうか、との逆提案をされたこともある。


逆張りで敢えて気が付く真実あり、というところだろうか。


ホーキンズ博士の本を読んで感じること、つまり"自我"にいかに私が/我々が自然に一体化しているか、と言うことだ。


生まれた時の基本specと言えるだろう。


そこからの離脱は、離脱しようとする意識自体が自我であるので、それは単に自己否定となる。


普通は"自我の死が死である"からである。


それは違うのかな、と少し感じたきっかけは、空と宇宙と無限を感じた時だ。


空には限界がない。境界は考えられない。


そうした無限に、日々、永遠に接している。


私は。


空が、青かったり、雲があったり、嵐があったり、雪が降ったりする。


何となく、空には限界があるように思ってきた。


しかし、どう考えても、空/宇宙の限界は無い。限界の向こうがあったらおかしい。


理解では、理解できない事がある。


そのように考えると、生物と非生物の境界もなくなった。固形と流体、気体の差異も無くなった。人間と動物の境界などあるわけがない。せいぜい状態の違い程度だ。


と言う感じになって来た。


良いと悪いも差では無く、グラデーションだ。


つまり


全ては一だ


という感じ。



いまはなんとなくその考えを、頭の中で転がしている


感じである。



<わたし>

<わたし>










高貴であること、純粋であること。

他者からどのように思われようとも、

無邪気な子供のように純粋に楽しめるなら、なんであれそれをするがいい。

起きることが起きるなら、あるがまま起こさせなさい。

高貴な存在になろうとせず、純粋な存在で在りなさい。

そこに善悪はない。 

 P.459 ヘルメス・J・シャンブ ”それ”は在る ある御方と探究者の対話

 

高貴であろうとする誘惑は強いものだろう。

 

高貴であること、がわかるものは誰か。自らが高貴であると評価する”自分”。

あるいは、他人。

 

評価する”自分”は自分のようであっても他人である。

他人の目を気にする面があるし、気にせず自分の想いである、という意思やあったとしても、そこにはかすかな他者の目が隠れている。

 

純粋で、あるべきだろう。

 

やりたいことをやる。

 

だが、そのことが”本当に自分がやりたいことか”と自分自身に尋ねること。

 

その結果であれば、なすべし、ただなすべし。

 

他人がいるか、そも”他人”とは何か、他人は自分ではないのか。

 

 

そもそも他人も自分もあるのですか。

 

 

面倒になり、やりたいことを”こころに尋ねて”おこなうべし。

 

純粋に。

 

 

“それ”は在る

“それ”は在る